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宮本顕治宅盗聴事件の判決 [戦後史]

創価学会盗聴事件判決 1985,4,22

創価学会による日本共産党幹部会委員長(当時)・宮本顕治宅盗聴事件は、この日判決が下された。

当時の北条浩・創価学会副会長・公明党参院議員の了承と資金提供により、山崎正友が指揮して実行したものとした日本共産党の主張が通った。

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政治家のキャラはプロレスラーのギミック並みか? [戦後史]

田中角栄入院 1985,2,27

退陣後も党内に大きな影響をもっていた田中角栄だったが、創政会結成で気落ちしたのか、この日、突然自宅で倒れた。発表では「軽い脳卒中」ということで入院したが、状態はそれ以上に深刻だった。

3月4日には医師団から「脳こうそく」で復帰まで2~3カ月と修正して発表。5月に退院したものの、言語などに後遺症が残り、以後登院することはなかった。これによって田中角栄の政治的影響力は急速に落ちていった。

しかし、田中角栄自身は議員を引退することはなく、90年の解散まで議員ではあり続けた。ほぼ2期にわたって1度も登院しないまま「議員活動」を続けたのは究めて異例のことで、立候補に疑問を感じる者は少なくなく、有権者の良識すら言及する者も一部に現れた。

かつては外務大臣まで務め、今もときおり政局のコメントを述べる田中真紀子議員も、おおもとには父・角栄の政治力、経済力、人気なくしてはこんにちはなかったといえる。

田中角栄といえば、高等小学校しか出ていないのに総理大臣になった、ということも話題になった。

しかし、実際には、現在で言う工業系の専門学校に入っており、厳密に言えば逆「学歴詐称」である。

田中角栄は、“高等小学校卒”を、立身出世や庶民派の象徴というセールスポイントにしたかったようだ。

田中角栄時代に代議士になった渡部恒三・元衆議院副議長は、普段は標準語で話し、テレビカメラが回る時だけ、ズーズー弁の「黄門様」になると、先日某夕刊紙が暴露している。

政治家も、プロレスラー並みのギミックを求めるらしい。

しかし、ファンタジーが売り物のプロレスや芸能界ならともかく、政治家がそれでいいのか。

政治家本人のインモラルだけでなく、それに協力するマスコミも同罪ではないのか。
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「ゆとり教育」とは何だったのか [戦後史]

臨教審委員会発足 1984,8,21

この頃すでに、「落ちこぼれ」「校内暴力」「非行」、そして「学歴社会」に結びついた「受験戦争」といった問題が深刻になっていたが、

中曽根康弘首相は、そういった問題を「なくす」として、文部省の反対を押し切って首相直属の審議会をこの日発足させた(84~87年)。

それが臨時教育審議会(臨教審)といわれるものである。

教審は任期終了までに計4回にわたる答申を行っているが、いずれも物議を醸した。

このときに登場したのが「ゆとり」教育である。

こんにち、清算主義的に否定された「ゆとり」や、文部科学省の「遠山プラン」などを見る限り、「落ちこぼれをなくす」というのは、誰もが参加できる健全で開かれた競争を撤廃し、一方では「できる子」と「落ちこぼれ」をはやめに割り振って、その受け皿を定めることで「実現」したかったようである。

まあ、たしかにそうなれば競争は緩和されるのだろうが、それは将来を担う子どもたちに努力精進する機会を奪っているだけであり、子どもの能力ややる気を全面開花させる仕組みとはいえないだろう。

ネットなどでも、バカげた意見を否定するときに「ゆとり」という「罵倒」を行うことがある。

「「ゆとり教育」はその目的が達せられたかどうかが検証ができない状態の中、詰め込み教育に反対していた日教組や教育者、経済界などの有識者などから支持されていた一方で、それを原因として生徒の学力が低下していると指摘され、批判されるようになった」(wiki)という指摘は大筋で当たっていると思われる。

最近になって、その方針は改められ、義務教育の授業時間とカリキュラムが戻りつつあるが、まさに緩みによる無競争は、その考え方も成果も様々な点から総括すべき点があるように思われる。
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総務庁発足 [戦後史]

定数格差判決 1984,5,17

都議選で東京・江戸川区民が「千代田区との定数格差が1対4.52になっている」として公選法違反を訴えた訴訟は、この日最高裁が「選挙は違法だが有効」との判決をくだした。最高裁の判決であることが注目を集めた。

国籍・戸籍法改正 1984,5,18

わが国では、父系を優先とした血統主義の国籍取得(子供は父親の国籍を取得)の法律が定められていたが、男女同権から男女両系の血統主義によるされに改正された。

これによって父母どちらかが日本国籍であれば日本国籍を取得できるようになった。またそれにともなって戸籍法も改正。国際結婚した女性とその子供が、外国の姓になっても日本国籍をもてるようにした。

しかし、これは改正後の該当者と改正時に未成年の者に適用される法律で、改正時点に成人だったり、無国籍だったりした者の救済措置は全く考慮されていないと問題視された。

総務庁発足 1984,7,1

「行革」路線は省庁の統廃合も範囲に入っており、その一環として総理府と行政管理庁が統合され、総務庁になった。現在の総務省の前身である。

同庁は「内閣の総合調整機能」としての役割を担うこととなった。官僚層は基本的に省庁の統廃合には消極的で、結局この1件だけで終わった。

その後、橋本内閣で省庁再編は行われ、現在の省庁に変更された。「縦割り行政の克服」と評価する向きもあるが、基本はたんなる合省の印象はぬぐえず、一方で利権の温床となっているセクションは分省されないなど課題点もある。
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民社党の「終わりの始まり」 [戦後史]

民社党第29回党大会 1984,4,23

民社党の佐々木良作委員長は、運動方針案で「選挙後の状況は本格的な連合の時代が来たことを示している」として、「保守・中道連合」「社公民路線」の2つの可能性をあげ、後者は「日本社会党の脱皮が必要なので」現実の可能性として自由民主党との連立に意欲を示した。

要するに、自由民主党の補完勢力になるか、日本社会党や公明党と同床異夢を追うか、という選択から前者を採ったわけだ。

いずれにしても自ら単独、もしくは中軸とする政権構想を諦めたということである。

民社党は政党として、事実上、この時点で終わったのかもしれない。

連立だの接着剤だのという旗印は、すでにこの時期、所属国会議員がたった4人の社会民主連合が掲げており、かりにも議会に提案権をもつ「五大政党」のひとつが、「連立」の選択肢しか示せないのは、戦後史的に見れば、二大政党制への潜在的な流れを示したと見ることもできる。

当時の民社党は、春日一幸、塚本三郎、大内啓伍らの「親自民」路線と、佐々木良作、永末英一、米沢隆らの「社公民」路線の対立が激しく、「春日が議論で興奮して灰皿を投げつけた」「大内と米沢は5分と話が出来ない」といった話がマスコミにも書かれたことがあるので、このとき、佐々木良作が「自由民主党との連立」を述べたのは意外だった。

いずれにしても、この頃から公明・民社の両党は自由民主党との連合を公然と表明。閣僚ポストをいかに自党に都合よく確保できるかを基準に、支持派閥を模索するという姿勢を表してきた。

10月27日には、その端的な例として、両党の委員長が一枚かんで、自由民主党・二階堂進の擁立に動いたことが発覚した。マスコミの一部ではそれを「大臣病」と表現した。
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ニュー社会党というが…… [戦後史]

日本社会党第48回定期大会 1984,2,27

前年末に「自衛隊違憲・合法論」で物議を醸した日本社会党の石橋正嗣委員長だったが、「違憲の自衛隊が国会の決定に基づいて法的に存在している」という「違憲・法的存在」に表現が改められた。

「違憲・合法」だとあまりにも据わりが悪いので、「違憲・法的存在」としたわけだ。

それは「憲法に照らして適法ではないので、将来は自衛隊の縮小・解体を行う」という認識のもとでの見解とした。

だが、中途半端であることに違いはなかった。

自衛隊を認めよという勢力からすれば、「違憲」だが存在するから認めますという消極性は認められないだろうし、もともと自衛隊反対だった日本社会党が「法的」に認めたということは、党内部の一部勢力には許されないことだった。

また石橋正嗣は、同党のスローガンを「ニュー社会党」とし、今後の運動方針を政権党への脱皮を目指すこととした。

日本共産党は、これを「右転落」と厳しく批判。安保・自衛隊、原発などをめぐる政策変更や党の基本路線見直しの動きに反対する党内の地方議員や活動家は、「社会党建設研究全国連絡協議会(党建協)」を設立した。

よく、党内の勢力を「右派」「左派」と表現することがあるが、この「右」「左」というのは、少なくとも同党の場合、たとえば親マルクスか反マルクスかとか、右翼・左翼といった定まったポジションではなく、たんに党の主流か反主流かというそのときどきの立場の区別的な表現である。

たとえば、この党建協は、いわゆる最左翼の社会主義協会の面々だけかというと、必ずしもそうではなく、各派閥の横断的な組織だった。

そして、後に日本社会党が小選挙区制に賛成していく過程で、社会主義協会とは全く関係のない上田哲あたりまでが「左派」扱いされた。

これまでの上田の言動や党内の立場を見れば、「上田哲が『左』か?」と疑問に思う者も少なくなかった。

その後、同党の「右転落」についていけずに新社会党ができたが、そのメンバーも「左翼」的な人だけの集まりというわけではなかった。

日本社会党は、さまざまな立場や政治的潮流の寄り合い所帯である複雑な構成だった上に、しょせんは中間政党、社会民主主義政党としての曖昧さを限界としてもっている政党だったから、その時々で「右」「左」の構成はご都合主義的に変わっていたのだ。
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戦後政治の総決算とは…… [戦後史]

戦後政治の総決算 1984,1,26

中曽根康弘首相は、総理大臣として日米関係の軍事的な強化や靖国参拝などで物議を醸したが、この日に行われた自由民主党第43回定期大会において「戦後政治の総決算」を訴えた。

それは行財政改革だけでなく教育改革も含んでいた。しかし、田中角栄問題に関する責任問題について一般論にとどまり、本格的な追及は行われなかった。

いずれにしても、「戦後政治の総決算」路線は、戦後史上、中曽根康弘政権の代名詞のように使われている。

それは具体的には何か。

すでにこれまでの出来事で述べてきたように、中曽根康弘は、「大統領型の首相」など手っ取り早く結果を出す、強力なリーダーシップを追求していた。

前首相の鈴木善幸が、「調和とコンセンサス」をモットーとしていたことの反動かもしれない。

だが、本当にそれを打破するなら、派閥を根本から解消すべきだったのではないだろうか。

政倫協と政党法 1984,2,22

2月22日の党4役会議では、「政党法」の制定を提案。翌日には、新たにできた衆議院政治倫理協議会(政倫協)にそれを提案した。

「政党法」とは、「革命の防止に寄与する」政党のみを認める、というものだった。

保守大政党が議会主義を取っているわが国では、当時「社会主義」を標傍する政党が「革命」政党とされた。それを綱領に掲げているのは、日本社会党(社会主義革命)や日本共産党(科学的社会主義)だけでなく、民社党(民主社会主義)や公明党(人間性社会主義)も該当した。

これには労組、全国革新懇、憲法会議など95団体、137名が「政党法制定に反対する中央連絡会議」を発足させ(4月8日)、反対運動を繰り広げることとなった。同組織には、参議院議員の青島幸男、美濃部亮吉、喜屋武真栄ら参議院議員も支援の激励電を寄せていた。
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「政治とカネ」の責任は? [戦後史]

全閣僚、初の資産公開 1984,1,24

戦後史は、疑獄の繰り返しでもあった。

「ロッキード事件」「ダグラス・グラマン事件」と汚職事件が相次ぎ、国会内外で政治倫理の確立を求める声が上がった。

中曽根康弘首相はそれに対して、「資産の公開」という方法を実行した。政治家の土地や建物や現金、有価証券、貸付金に借入金、その他自動車などの持ち物を公開するというのである。

戦後史上、そのような試みはなかったから、その点では画期的に見えた。

しかし、実際には本人名義のものに限っていたり、時価ではなく固定資産税標準価格での「公開」だったりしたので、それほどの説得力はなかった。

以降、政治家の金銭スキャンダルになると必ず出てくる「秘書」や「政治団体」は、この公開に関係していない。

たんに政治家個人の資産するだけでは、政治資金の「入」や「出」の透明性を証明するものにはなり得ない。

現実に、資産順位で上位にくるのは、資産を隠し慣れしていない(?)新人タレント出身議員や、親の莫大な遺産を相続したケースが多い。

彼らに一定の資産があることを疑うものではないが、政治活動と直接関係のない資産の公開だけでごまかされているのではないか、という疑問もなくはない。

たとえば、鳩山由紀夫前首相の母親からの「子ども手当」は、古館伊知郎なるキャスターによると、ゼネコンからの献金ではないから大した問題ではないそうだが、政治資金は「入」だけでなく「出」も見なければならないという視点が、このキャスターには欠落している。

蓮舫なるタレント出身の大臣が、事務所としてつかってはならないところを事務所として登録したり、豪邸を会社名義にして「資産隠し」をしたりしていることは、一部週刊誌以外は、一切スルーである。

その一方で、合法的に政治資金報告書に記載されていて、これまでも例があったにもかかわらず、「小沢一郎」というだけで「出」まで悪意に報じる現象もある。

「政治とカネ」は、政治家自身にあるのは当然としても、次元は違うがマスコミや大衆の民度も責任の一端があるのではないか。
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中曽根康弘と小泉純一郎という「タカ派」の違いは…… [戦後史]

戦後初の首相靖国参拝 1984,1,5

「戦没者に敬意と感謝の誠をささげたい思いは変わりなく、個人として参拝するつもりだ」(2002年5月9日、衆院本会議)というタンカをきった小泉純一郎首相の靖国神社参拝は記憶に新しい。

有事法制上程とともに、タカ派としてだけは指導力を発揮する同首相らしい唐突な参拝といえたが、同首相の首相就任後の靖国参拝自体は2度目であり、もともと首相就任者の参拝自体、実は戦後史上初めてではない。

靖国神社の閣僚参拝は、憲法の「政教分離」に抵触する行為ということで、過去の首相は参拝を見送るか「私人」としての参拝にとどめていた。

政府自体が「違憲ではないかとの疑い」を否定できないとしていた(80年11月)からである。

しかし、中曽根康弘はあえて首相として参拝したのがこの日であった。

しかもそれだけでなく、公式参拝合理化のために、官房長官の下に懇談会を設置して公式参拝の合憲性を検討させようとした(8月3日)。改めてそのタカ派ぶりが国会の内外で問題になった。

ただし、当時の中曽根康弘首相と、以後の、たとえば小泉純一郎元首相とを「自由民主党タカ派政治の流れが続く」と、単純に一本の直線で結ぶのは現象論にすぎないだろう。

冷戦構造といわれた米ソの対立を軍事的テーマとしていた当時と、現在とでは客観的に見て社会情勢は異なっているからだ。

小泉純一郎首相の「タカ派」ぶりは、中曽根康弘首相時代とは別の視点や性格ーたんなる右翼的反動ではなく、新自由主義的な必然性をもった戦略ーを見ておくことも戦後史として、もしくは政治分析上必要な試みといえるだろう。
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自衛隊「違憲・合法」 [戦後史]

自衛隊「違憲・合法」発言 1983,12,20

「社公合意」を結び、これまでの社共中軸、もしくは全野党共闘路線から、日本共産党を政権構想からはずすことを宣言した日本社会党。

だが、それだけでは保守陣営は物足りないと、さらにルビコン河を渡ることを求めた。具体的には、自衛隊と安保条約を認めるかどうか、という点について「右転換」を求めたのである。

日本社会党は、「日本共産党以外の革新同志の大同団結」というかなりおおざっぱな党是で人が集まっているため、そこにはさまざまな潮流と微妙な力関係があった。

その中で、簡単に白から黒、左から右というように党の見解を変えることはむずかしかった。

そこで、石橋正嗣委員長は、党機関誌の『月刊社会党』の小林直樹教授との対談で、教授が自衛隊の存在を「違憲だが合法」としたのに対し、党の自衛隊政策変更の目的からそれに同調した。

自衛隊は違憲だが、防衛庁設置法(昭和29年法律第164号)も自衛隊法(昭和29年法律第165号)も国会での正規の手続きを経ており、一定の国民も支持しているので合法であるとする説である。

「護憲」の日本社会党としては認められないが、出来た事実はインチキではないという話である。

しかし、考えてみればおかしな話だ。

これでは、自衛隊を認めろ、という側からすればとうてい満足できる回答ではないだろう。

「既成事実で不承不承認めます」といっているようなものなのだから。

また、自衛隊反対の側からすれば、違憲だから反対すべきなのに、存在する事実をもって認めてしまったら、そもそも政治的闘争自体を否定しかねないものだと思うだろう。

これまた党内外に波紋の広がる発言だった。
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