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ニュー社会党というが…… [戦後史]

日本社会党第48回定期大会 1984,2,27

前年末に「自衛隊違憲・合法論」で物議を醸した日本社会党の石橋正嗣委員長だったが、「違憲の自衛隊が国会の決定に基づいて法的に存在している」という「違憲・法的存在」に表現が改められた。

「違憲・合法」だとあまりにも据わりが悪いので、「違憲・法的存在」としたわけだ。

それは「憲法に照らして適法ではないので、将来は自衛隊の縮小・解体を行う」という認識のもとでの見解とした。

だが、中途半端であることに違いはなかった。

自衛隊を認めよという勢力からすれば、「違憲」だが存在するから認めますという消極性は認められないだろうし、もともと自衛隊反対だった日本社会党が「法的」に認めたということは、党内部の一部勢力には許されないことだった。

また石橋正嗣は、同党のスローガンを「ニュー社会党」とし、今後の運動方針を政権党への脱皮を目指すこととした。

日本共産党は、これを「右転落」と厳しく批判。安保・自衛隊、原発などをめぐる政策変更や党の基本路線見直しの動きに反対する党内の地方議員や活動家は、「社会党建設研究全国連絡協議会(党建協)」を設立した。

よく、党内の勢力を「右派」「左派」と表現することがあるが、この「右」「左」というのは、少なくとも同党の場合、たとえば親マルクスか反マルクスかとか、右翼・左翼といった定まったポジションではなく、たんに党の主流か反主流かというそのときどきの立場の区別的な表現である。

たとえば、この党建協は、いわゆる最左翼の社会主義協会の面々だけかというと、必ずしもそうではなく、各派閥の横断的な組織だった。

そして、後に日本社会党が小選挙区制に賛成していく過程で、社会主義協会とは全く関係のない上田哲あたりまでが「左派」扱いされた。

これまでの上田の言動や党内の立場を見れば、「上田哲が『左』か?」と疑問に思う者も少なくなかった。

その後、同党の「右転落」についていけずに新社会党ができたが、そのメンバーも「左翼」的な人だけの集まりというわけではなかった。

日本社会党は、さまざまな立場や政治的潮流の寄り合い所帯である複雑な構成だった上に、しょせんは中間政党、社会民主主義政党としての曖昧さを限界としてもっている政党だったから、その時々で「右」「左」の構成はご都合主義的に変わっていたのだ。
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