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『「下流」の人は他人と関わらない』という統計考察おかしいぞ! [社会]

『「下流」の人は他人と関わらない』という統計考察が話題になっています。毎日新聞社と埼玉大社会調査研究センターが実施した世論調査「日本の世論2014」で、社会の「下流」に属すると考える人ほど他人と関わらない気楽さを選ぶ傾向があるというのですが、その考察は2つの点で疑問を感じました。

調査は、全国の有権者1800人に郵送で行ったもの(10月中旬から12月初旬にかけて回収率59%)だそうです。

その結果、

社会的に「上流」と考える人は近所づきあいのある安心感を求め、「下流」に属すると考える人は近所づきあいより他人と関わらない気楽さを選ぶ傾向がある、という考察を行っています。

記事では「専門家は、貧困と人間関係の貧しさに相関関係ができたと指摘する」とまで言い切っていますが、はたしてそうでしょうか。

詳しい調査内容は記事をご覧ください。
http://sp.mainichi.jp/feature/news/20141223mog00m040012000c.html

結論から述べると、私にはこの考察は、人付き合いをする人が立派な人という絶対的な「美学」があり、貧乏な奴はそれも満足にできないという偏見に満ちた結論ありきの調査なのだと思いました。

人の意識や価値観てそんな単純なものではないでしょう
人の意識や価値観てそんな単純なものではないでしょう

その理由は大きく2つあります。

ひとつは、統計調査(とくに意識調査)は、対象が何百人だろうが何千人だろうが何万人だろうが、ある命題を解明するための目安やきっかけに過ぎず、この考察者が言うような「相関関係」を語るのなら、さらに契機性、生成性、因果関係などを見るための裏付けが必要なのにそれが行われていない、ということです。

調査の中身を見ると、そもそも「上流」か「下流」か、近所づきあいを「する」か「しない」かの線引きには客観的なものはなく、もっぱら回答者の自己申告というのですから何をか言わんやです。

つまり、第三者的には「近所付き合いをしていない」ように見える人でも、自分が「近所づきあいをしている」と思えば、近所づきあいをする人としてカウントされてしまうのです(笑)

天下の国立大学と三大全国紙が、必死になってそんないい加減な調査をしているのです。

一応、年収300万以下が「下流」の意識を持つ人が多かったと書かれていますが、そんなもの、独身時代と家庭を持ったときでは、かかるお金も描く生活設計もかわってきます。

つまり、自己申告では、同じ人でも、人生のステージによって「上流」か「下流」かの回答が変わってくる可能性だってあるのです。

基準がないだけでなく、同一人物ですら時と場合で回答が変わってしまうような“流動的”なものを前提とする「調査」で、社会の「格差」だの「相関関係」だのをどうして結論付けることができるのでしょうか。

考察者は、平たくいうと、「貧乏な奴は生活に余裕がないのと、他人のリア充の見聞きが嫌だから他人との関わりを避けるのだろう」とコバカにする先入観が深層心理にあるのかもしれません。

生活に余裕がなければ、付き合いも制限されるというのは客観的にありえます。

でも、本当それだけでしょうか。

この考察者の言い分とは、全く正反対のベクトルは考えられないでしょうか。

つまり、「下流」だから人付き合いが苦手になるのではなく、そもそもはじめに人間嫌い、徒党を組むのが苦手、という価値観、人生観があるから、いきおい「わずらわしい関わりを避ける生き方」を選び、その結果「機会の損失」で収入も低くなるということだってあるでしょう。

もしそうなら、それは個々の人生観、哲学に基づいた「他人と関わらない」ケースであり、考察者がドヤ顔で語るような「格差」云々とは直接の関係はありません。

「上流」なるものにしたって、本当に「上流」だから近所付き合いをするのではなく、「上流」と思われたいただの見栄っ張りが、人当たりを良くして「いい人に思われたい」から上辺の付き合いを数多くこなしているだけかもしれません。

そうだとすれば、「上流だから近所付き合いをする」という考察と実態は違ってきます。

そもそも、私のように、「上流」か「下流」かではなく、火災の時に犯人呼ばわりされたから「近所づきあい」をしたくなくなった人間だっているのです。

人付き合いというのは相手があってのものですから、相手が“あんまりな人”では、いくらこっちが付きあおうという意思があっても、付き合えないということもあるのです。

そうした要素は、この統計の考察では、まーったく考慮されていません。

もちろん、私の書いたこともすべてではないかもしれません。

考察者の考察の通りの層もあれば、私の考察に属する層もあるでしょう。

だからこそ、統計は「ひとつの考察」で結論とするのではなく、さらなる調査が必要なのです。

なのに、埼玉大学と毎日新聞の記者は、たかがひとつの統計だけで勝手にもっともらしい答えを出しています。

大学もマスコミもこんなお粗末な水準だから、科学者マインドの欠片もない女性のナントカ細胞にコロッとダマされるのでしょう。

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人付き合いなんてバブルみたいなもんだろう


もうひとつの問題は、こうした一面的な考察の背景には、

人付き合いをする人>他人と関わらない人

という価値観の刷り込みが読者に対して企図されていることです。

改めて問います。

人付き合いをしない人は人間としてダメなんでしょうか。

そう思っている人は、そういうことにしたいだけじゃないんですか。

私は3年前、不慮の火災でいろいろなものを灰にしてしまったため、それを機会にかねてから疑問だった年賀状をやめることにしました。(住所録も焼けてしまったのです)

でも、先方から来たり、この人だけは出しておこうなんて思ったりで、結局10通ぐらいは出しました。

そのとき、こんなふうに思ったのです。

肝胆相照らす、どちらかが先に死んでも、葬式で心の底から泣けるような本当の「ともだち」というのは、数的にそんなもんだったんじゃないだろうか。

要するに、それまで出していた何十枚、何百枚という年賀状は、見栄や義理など処世術上の付き合いでしかないことに改めて気がついたのです。

もっとはっきり述べれば、「出さなくても困らない」ものであったことがわかったのです。

「私は友だちが多い」と自慢しているおっちょこちょいを見ると、

私は「バカ言っちゃいけない」と思います。

見栄張んじゃねーよ
見栄はってんじゃねーよ

1日24時間。そして人間の寿命やご縁の確率を考えたら、懇意にできる人の数なんてしょせん限られてくるのではないでしょうか。

だったら、セールスマンの飛び込み営業の如く「数をこなす」のではなく、信頼できる人との関係をじっくり育んでいけばいいのではないかと思います。

それができたら、別にそれ以外の雑多な付き合い、否定はしませんが、何が何でもというものでもないように思います。

いつの場面でも、誰かと繋がっていないと不安で仕方ないというあなた。

そう思いませんか?

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