仏教と他責の関係ーひどい目に合わされても相手を怨めない!? [仏教]
先々週の仏教関連の記事、「身から出た錆」について、レスポンスがあったので蒸し返します。仏教とはなにかを考えるテーマだと思うので、仏教に関心のある方はぜひご高覧ください。
まず、先週はなにを書いたかというと、「身から出た錆」は仏教から出た言葉ですが、自分自身が考えることであり、なにかトラブルがあった時、自分が被害者であっても相手を責めるために使うものではない、と書きました。
仏教本来の意味と異なる使われ方がされているもの。「身から出た錆」は自分に使う言葉で相手に向けるものではありません。「なまぐさ」は怒り、慢心、強情、反抗、偽り、ねたみ、大言壮語、高慢ちき、不良との付き合いので、肉を食べることがなまぐさなのではありません。https://t.co/ZTuBTVxKUa pic.twitter.com/aOy9hSVS5t
— 戦後史の激動 (@blogsengoshi) May 12, 2024
たとえ、加害者の過失が100%であったとしても、「身から出た錆」かどうかは相手自身が考えれば良いことで、被害者だからといって、そこまで言うのは差し出がましい、と書きました。
ところが、それに対して、被害者感情と事件の真相追求を妨げるものではないか、という趣旨のコメントが有りました。
仏教は他責ではいけないといいますが、相手に全面的に過失がある場合もあります。
池袋の暴走事故は、「上級国民」のブレーキ踏み間違い、つまり相手の全面的過失が原因と認めれば合理的に説明できます。家族からも運転を止められていたのに、本人が言うことを聞かなかったから事故につながったのですから、「身から出た錆」ではないでしょうか。それなのに、他責をためらったら、いったい仏教は責任の所在をどう考えているのでしょうか。
まさか、「前世の因果」で逃げるつもりでは?
相手のブレーキの踏み間違いで事故が起こったのに、相手を責めないのはおかしいじゃないかと。
そして、相手の過失はどう見ても「身から出た錆」だろう、その責めをためらうな、ということです。
仏教は、自因自果・自業自得の世界観(原因を自分に還元する)であり、他責思考ではいけないといわれます。そのことを含めての、仏教に対する疑問のようです。
「ブレーキの踏み間違い」との見解は、全くそのとおりだと思います。
ただし、仏教は、ジャーナリズムでも警察でもありません。
狙っているところが違うのです。
相手の過失割合なんてシんだ本人にはどうでもいいこと
過失の責任を問うのは、一般社会のルールであり、相手を告訴するのも提訴するのも当然です。
とくに刑事は親告罪でない限り、被害者本人が示談で収めたくても、警察・検察が許しません。
過失のある者は、近代社会のルールのもとで、応分の責任を果たさなければなりません。
ただし、仏教の悟りを目指すなら、そうした社会的な手続きとは別に、被害者自身は相手に対する執着(うらみ)を捨てなければならない、ということです。
仏教は、誰々がこうしたからこうなった、ではなく、その不幸不運に対して自分の心はどうあるべきか、を問うものなのです。
相手を怨むことは「業」、すなわち煩悩であり、悟りの実現の障害、たからそれを捨てよというのが仏教の立場です。
被害者感情を煩悩なんて、そして煩悩を捨てろなんて、トンデモないと思いますか。
思いますよね。
私は執念深いから思います。当然ですよ。
私にひどいことをシたやつは、生涯うらもうと思いますよ。
それが人間の自然な感情です。
ですから仏教は、禅を組んだり、読経したりする修行によって、なんとかして、その気持ちをなくすのです。
たとえば、木が風で倒れて頭にあたってシんでも、相手が木だから文句は言えませんが、人が乗ってる車の事故だと文句を言いたくなるのは、人の心が問題を作り出している、というふうに仏教は考えるのです。
誰のせいでもない事故と、事件性のある事故を一緒くたにするなと思われますか。
再発防止のために、事故原因にアプローチするのは社会的な行為としてそれはそれで大事ですが、その人自身にとっては、どっちでもシねば同じですよね。
だったら、怨む心は余計だと。自分にとってマイナスだと。そういうことです。
しょせん、人はいつか、何らかの原因でシぬんだ、と悟っていたら、その原因がなにかは本質的なことではないだろう、というわけです。
仏教は一切皆苦といいますが、人生は理不尽で非合理で不条理なもの、と見定めています。
本人が気をつけていても、遺伝性の病気になるかもしれないし、横断歩道を歩いていても車が突っ込んでくるかもしれません。
それが人生なのです。
その前提で、相手の過失が何%か、なんていう話は、シんでしまえば、シンだ本人にとってはどうでもいいことですよね。
「それではシンだ〇〇さんが浮かばれない」なんていうのは、残された人が、納得行かなくてそう思ってるだけでしょう。
そういう心の煩悩を清めない限り、人は苦しみから開放されることはない、というのが仏教の結論です。
悟りの道か、「復讐の心」は本当にいけないことか?
仏教は良いことをたくさん言い、その教えは日常生活にも反映されていますが、本来の目的に向けた実践は簡単ではない、ということです。
家族が56されても、怨む「煩悩」の滅尽なんていう、当事者にとっては大変苦しいものを目指す教えですから。
ですから、仏教は、世界の誰もに勧められるメジャーな宗教ではなく、生きづらい人の最終手段なのです。
不幸を経験して、人を怨むことでどうにもならなくなった人が、怨みを消して心安らかになるための教えなのです。
私は、ことと次第によりますが、復讐の心(笑)を、相手を見返すという自分自身に前向きな形で解決したいと考えます。
それは仏教にとっては煩悩ですが、現実に生きていくうえでは捨てたものではないと思うので、もう少しその俗世的価値観で頑張りたいと思っています。
「前世」の話を書く前に2000字を超えてしまいました。
結論だけ書きますと、ソースの佐々木閑先生は釈迦仏教の第一人者ですが、ご自身は「科学の発達した21世紀に輪廻転生を信じろというのは無理がある。人はなくなったらそこで消滅する」と明言されています。
いかがですか。
これまでの人生で、「あいつは許せない」と思い続ける怨みはありますか。
それは、ご自身で解決できそうですか。それとも、悟りの手助けが必要ですか。
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おはようございます^^
仏教の教えについては納得できますし、わたくしも一応は仏教徒。
でもでも、、、納得できてもやはり「恨み」は消えないですね^^
所詮わたくし、普通の人です(ーーゞ
by mm (2024-05-18 06:28)
その人は要は身から出た錆って言いたいのかな、と。
by pn (2024-05-18 06:32)
パン作りの経験は長いです。
一応、お店で販売します。残りを食べてますよ。
by 夏炉冬扇 (2024-05-18 07:19)
ツケを支払うのはこの世とは限らない、という説を聞いたことがあります。一生、逃げおおせて、ラッキーと思っても、その後に、支払いが待っているとか・・・
by mayu (2024-05-18 07:34)
宗教の信仰が無い私は穏やかな心を持つことを尊ぶ禅の教えが良いと思っています。
by mistta (2024-05-18 07:52)
怒りの感情への執着も捨てることは、心が平安になる道だとわかるのですが
人として幸せを追う気持ちはもだんだんとぼんやりするようで、生きる楽しみが減るようでさみしい
喜怒哀楽がはっきりする怒涛の人生も、それに耐えられるならありかなと思います
by よいこ (2024-05-18 10:23)
幸せなことに「あいつは許せない」的な人はいません
みんな良い方ばかりで恵まれた環境だと思います
現代社会は「理不尽で非合理で不条理なもの」が溢れています
心穏やかに生きていきたいと思っています
by ムサシママ (2024-05-18 14:53)
仏教においては、他責と自責の概念は、因果律と密接に関連しています。仏教では、すべての行為には結果が伴うとされ、これを「因果応報」と呼びます。個人の行為が未来に良いか悪いかの結果をもたらすという考え方です。しかし、これは単純な原因と結果の関係ではなく、複雑な相互作用として理解されることが多いです。
たとえば、池袋の事故のような場合、運転手の過失が明らかであれば、その人はその行為に対する責任を負うことになります。しかし、仏教の観点からは、事故に至るまでのさまざまな条件や要因も考慮されるべきです。家族の忠告を無視したこと、運転を続けることを選択したことなど、多くの要素が絡み合って結果が生じたと見ることができます。その多くの要素ごとに「責任」を考えるべき点はあります。しかしいずれの「責任」も考えるべきは本人ということはその通りだと思います。
by 南無 (2024-05-18 15:37)
仏教の考えを是として100%その原理に従えと言う
宗教でもないので悟りをひらけなくても構わない
のではと思ったり。
(イスラムやキリストとの差ですよね)
by tai-yama (2024-05-18 19:32)
私は、あいつは許せないと思う人が職場に一人います。その人が私の大切な人の生死に関わったのではなく、私自身の悪口を言いふらされたり、陥れようとしたり、人間性までも否定したりされたからです。禅を組んで忘れようとも思いませんけど、いつか吊し上げてやるって密かな復讐心はあります(笑)
by itomaki (2024-05-18 22:54)