芭蕉の句碑。元禄三文豪の一人である松尾芭蕉の句が書き刻まれた碑です。東海道川崎宿の史跡の一つに数えられ、地元の人々に大切に守られています。26あるとされる東海道川崎宿の史跡の中で25番目に遭遇します。旅籠が集中するエリアからは外れていますが、松尾芭蕉と門弟たちはそこで惜別の句を詠み合いました。
芭蕉の句碑の所在地は、現在の住所でいうと川崎市川崎区日進町。京急線の八丁畷(はっちょうなわて)という駅から歩いて2分のところです。下り方面の普通電車に乗ると、京急川崎の次の駅になります。
線路のすぐ近くにあります。
3日に、「
六郷の渡しから万年屋へ(旧東海道川崎宿を歩く)」で、川崎宿の入口について書きましたが、今回は出口にもっとも近い史跡です。
さて、松尾芭蕉については改めて書くまでもなく、近松門左衛門、井原西鶴らと並んで元禄三文豪に数えられている文学史上に名を残す俳人です。
松尾芭蕉が生涯読んだ句は約900句といわれています。“侘び・さび・細み”の精神、“匂ひ・うつり・響き”といった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した文章表現を通して多くの人々を魅了し、「俳聖」と呼ばれるようになったのです。
その松尾芭蕉の郷里は伊賀国拓殖庄。ではいったい川崎とどんな関係があったのでしょうか。なぜ東海道川崎宿で句を詠んだのでしょうか。
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麦の穂をたよりにつかむ別れかな
句碑のとなりに建っている解説板(川崎市教育委員会)にはこう書かれています。
俳聖松尾芭蕉は元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある
麦の穂をたよりにつかむ
別れかな
の句にたくしました。
芭蕉は、「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の10月、大阪で、
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
という辞世の句をのこし、51歳の生涯をとじました。
それから百三十余年後の文政13年(1830)8月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の櫻井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。
昭和59年10月 川崎市教育委員会
松尾芭蕉が江戸深川を出発して郷里に向け東海道を旅する途中、江戸から送ってきてくれた門弟たちといよいよお別れをすることになりましたが、門弟たちは名残惜しくてなかなかわかれることができません。
そこで、八丁畷の茶屋でだんごを食べながら詠み合った惜別の句なのです。
門弟たちは、松尾芭蕉に対してこのような句を読んでいます。
刈り込みし 麦の匂いや 宿の内 利牛
麦畑や 出ぬけても 猶麦の中 野坡
浦風や むらがる蝿の はなれぎは 岱水
松尾芭蕉はその半年後に亡くなったので、門弟たちとは結果的に“今生の別れ”になってしまいました。
句には「刈り込みし麦の匂い」や「麦畑」「麦の穂」という言葉が出てきます。
当時の八丁畷は、民家や商店も少なくなった田畑と街道だったということがうかがえます。
時代劇によく出てくる腰掛け茶屋のシーンがそんな感じです。何もない野っ原に、ぽつんと茶店が建っているという光景が思い浮かびます。
当時の地図を見ると、川崎宿の旅籠は、現在の京急川崎駅の近くに集中しており、川崎区京町というところにある市電通りを超えると、もう史跡は芭蕉の句碑など2つしかありません。
そうした寂しさが、一層寂寥感を煽ったのでしょう。
松尾芭蕉の句碑については、ほかにも川崎大師(平間寺)、稲毛神社、東海道は外れますが高津区の宗隆寺、宮前区の影向寺など川崎市内の4箇所にあります。またそれをご紹介できる機会を持ちたいと思います。
いずれにしても、東海道川崎宿を偲ばせる史跡といえるでしょう。
近くには、江戸時代に災害や飢餓で亡くなった身元不明の人びとを供養している「無縁塚」という史跡もあります。
そこを出ると、旧東海道次の宿は神奈川(今の横浜西区)になります。
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