小保方晴子氏問題で「奇跡の詩人問題」を思い出す [(擬似)科学]
小保方晴子氏問題。STAP細胞を200回作製したと言い張るものの相変わらず出てきません。にもかかわらず、それとは離れたニュースがいまだに聞こえてくるので、良識ある人はもううんざりしているのではないでしょうか。また、彼女に奇妙な同情をした文化人や一部の大衆、(STAP細胞は)あるかないか、ではなく、小保方晴子氏を信じるか信じないか、という問題として受け止めてしまった間違いは、12年前の「奇跡の詩人問題」を思い出します。
理化学研究所の調査委員会が、不正があったかどうかの「再調査は不要」と結論付け、理研は再調査を行わないと決定。
それに対して小保方晴子氏側は不満を述べ、公開した実験ノートが証拠として足りないといわれていることについても、今度は公開したのは一部だと「反論」しているようですね。
一連の小保方晴子氏側の「反論」は結局、今のポジション(理研の研究者)を守ることのみに熱中していて、おおもとにある「科学者として自分はどうなのか」という反省が全くありません。
博士論文の流用や、キメラマウスの写真の「取り違え」は、悪意か不正か捏造かという表現や動機の問題ではなくて、手順をふんで実験を繰り返し順当な考察を発表するという、科学者として当たり前のことができなかったわけです。しかも、一部画像は普通はありえないやり方で、修正までする始末。
よく、「若い研究者を潰すな」という同情論がありますが、トンデモない。逆です。
ポスドクといいますが、能力や可能性はあっても不遇な科学者はたくさんいます。この人が登用されなければ、そういう人が登用されていたわけで、機会の損失も考えるべきではないでしょうか。
にもかかわらず、会見後、正直で好感が持てた、などという感想を述べた文化人や、それに同調した人々がいた。
いまだに熱狂的なファンはいるようですね。どこがいいのかわかりませんが。
それはともかく、現実にSTAP細胞は出てこない。
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彼らの主張の本質は、STAP細胞があるかどうか、という問題ではなく、小保方晴子氏を好きとか信じるとかいった、次元の異なる「対抗言論」を振りかざしたのです。
ちょうど12年前の今頃、「奇跡の詩人」問題で、似たような「論争」が繰り広げられたように……。
奇跡の詩人問題、覚えてらっしゃいますか。もしくは、ご存じですか。
2002年4月28日。NHKが放送した、タイトルもまさに「奇跡の詩人」。
誕生直後の手術の影響で脳に障害を負い、話すことも立つこともできない少年が、特定のリハビリで天才的な能力を獲得。大人たちをも感動させる詩人として成長した姿を描いたとするスペシャル番組が放送されました。
放送後の視聴者の反応は、例によって情報を額面通り鵜呑みにして「感動した」というものがある一方で、内容に関する批判や疑問も数多く寄せられ、「番組の内容に関する真偽」と、「放送法違反」をめぐって大問題になりました。
その「真偽」とは、大きく3つありました。
1.子どもが表現しているように見せている詩や文章は、母親自身が保持する文字盤がめまぐるしく動いている
2.番組で言われている少年の読書力は、大学院レベルでないと簡単に読みこなせない難易度の高い書籍を、量的にもかなりのスピードで読破しなければならず、分刻みのドーマン法によるリハビリでは到底不可能であると考えられる
3.放送法第3条2項第4号(意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること)に反して、正当な医療行為ではないドーマン法について懐疑的な検証が全くなかった
番組制作者は、番組内容に問題があったことは公式には認めなかったものの、批判に有効な反論ができず、予定されていた再放送や北米での放送は中止されました。
ところが、「奇跡の詩人」問題も、背後関係は知りませんが、「奇跡」を「信じる」とする一定の人々がいました。
自分の感動を否定したくないんでしょうね。
信じるのは勝手ですが、それと、医学的に認められるかどうかは全く別の問題です。
「NHK」の「感動」というと、春先に話題になった佐村河内守氏の件が思い出されますが、あれはゴースト作家をどう見るかということと、聴覚障害認定に伴う福祉の詐取、と問題は絞られており、科学的な「発見」かどうかが問題になっているという点では、やはりSTAP細胞問題の方が近いように思います。
今回のSTAP細胞問題も、熱心な小保方ファンがいるそうで、パロディ番組を放送中止に追い込んだだけでなく、理研への抗議がすごいといいます(『東京スポーツ』5月9日付)
こんなことを書いているこのブログだって、いつ炎上するかもしれません。
しかし、それでも書いておかなければならないのは、
科学的命題というのは、信じるか信じないか、好きか嫌いか、ではなく、事実として「有る」かどうかが全てなのです。
バラエティ番組で「阿呆方」をスリッパで叩くパロディが許されるかどうかはともかくとして、税金で研究する権威ある機関の「ユニットリーダー」とやらが、小学生の絵日記のような「実験ノート」を3年間で2冊しか書いていなかったり、事実が問われる科学の世界で「他者に再現できない真実」を強調したりすれば、世間に嘲笑されるのは当然でしょう。
そして私たちも、科学的命題と価値観とを混同する悪い癖は、いい加減直さないと、いつまでたっても疑似科学や霊感商法に騙される問題は解決しないでしょう。
理化学研究所の調査委員会が、不正があったかどうかの「再調査は不要」と結論付け、理研は再調査を行わないと決定。
それに対して小保方晴子氏側は不満を述べ、公開した実験ノートが証拠として足りないといわれていることについても、今度は公開したのは一部だと「反論」しているようですね。
一連の小保方晴子氏側の「反論」は結局、今のポジション(理研の研究者)を守ることのみに熱中していて、おおもとにある「科学者として自分はどうなのか」という反省が全くありません。
博士論文の流用や、キメラマウスの写真の「取り違え」は、悪意か不正か捏造かという表現や動機の問題ではなくて、手順をふんで実験を繰り返し順当な考察を発表するという、科学者として当たり前のことができなかったわけです。しかも、一部画像は普通はありえないやり方で、修正までする始末。
よく、「若い研究者を潰すな」という同情論がありますが、トンデモない。逆です。
ポスドクといいますが、能力や可能性はあっても不遇な科学者はたくさんいます。この人が登用されなければ、そういう人が登用されていたわけで、機会の損失も考えるべきではないでしょうか。
にもかかわらず、会見後、正直で好感が持てた、などという感想を述べた文化人や、それに同調した人々がいた。
いまだに熱狂的なファンはいるようですね。どこがいいのかわかりませんが。
それはともかく、現実にSTAP細胞は出てこない。
彼らの主張の本質は、STAP細胞があるかどうか、という問題ではなく、小保方晴子氏を好きとか信じるとかいった、次元の異なる「対抗言論」を振りかざしたのです。
ちょうど12年前の今頃、「奇跡の詩人」問題で、似たような「論争」が繰り広げられたように……。
「ある」と「信じる」は違う
奇跡の詩人問題、覚えてらっしゃいますか。もしくは、ご存じですか。
2002年4月28日。NHKが放送した、タイトルもまさに「奇跡の詩人」。
誕生直後の手術の影響で脳に障害を負い、話すことも立つこともできない少年が、特定のリハビリで天才的な能力を獲得。大人たちをも感動させる詩人として成長した姿を描いたとするスペシャル番組が放送されました。
放送後の視聴者の反応は、例によって情報を額面通り鵜呑みにして「感動した」というものがある一方で、内容に関する批判や疑問も数多く寄せられ、「番組の内容に関する真偽」と、「放送法違反」をめぐって大問題になりました。
その「真偽」とは、大きく3つありました。
1.子どもが表現しているように見せている詩や文章は、母親自身が保持する文字盤がめまぐるしく動いている
2.番組で言われている少年の読書力は、大学院レベルでないと簡単に読みこなせない難易度の高い書籍を、量的にもかなりのスピードで読破しなければならず、分刻みのドーマン法によるリハビリでは到底不可能であると考えられる
3.放送法第3条2項第4号(意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること)に反して、正当な医療行為ではないドーマン法について懐疑的な検証が全くなかった
番組制作者は、番組内容に問題があったことは公式には認めなかったものの、批判に有効な反論ができず、予定されていた再放送や北米での放送は中止されました。
ところが、「奇跡の詩人」問題も、背後関係は知りませんが、「奇跡」を「信じる」とする一定の人々がいました。
自分の感動を否定したくないんでしょうね。
信じるのは勝手ですが、それと、医学的に認められるかどうかは全く別の問題です。
「NHK」の「感動」というと、春先に話題になった佐村河内守氏の件が思い出されますが、あれはゴースト作家をどう見るかということと、聴覚障害認定に伴う福祉の詐取、と問題は絞られており、科学的な「発見」かどうかが問題になっているという点では、やはりSTAP細胞問題の方が近いように思います。
今回のSTAP細胞問題も、熱心な小保方ファンがいるそうで、パロディ番組を放送中止に追い込んだだけでなく、理研への抗議がすごいといいます(『東京スポーツ』5月9日付)
こんなことを書いているこのブログだって、いつ炎上するかもしれません。
しかし、それでも書いておかなければならないのは、
科学的命題というのは、信じるか信じないか、好きか嫌いか、ではなく、事実として「有る」かどうかが全てなのです。
バラエティ番組で「阿呆方」をスリッパで叩くパロディが許されるかどうかはともかくとして、税金で研究する権威ある機関の「ユニットリーダー」とやらが、小学生の絵日記のような「実験ノート」を3年間で2冊しか書いていなかったり、事実が問われる科学の世界で「他者に再現できない真実」を強調したりすれば、世間に嘲笑されるのは当然でしょう。
そして私たちも、科学的命題と価値観とを混同する悪い癖は、いい加減直さないと、いつまでたっても疑似科学や霊感商法に騙される問題は解決しないでしょう。
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