『図解 よくわかるADHD』発達障害の理解とは? [発達障害]
『図解 よくわかるADHD』(ナツメ社)を読みました。著者は榊原洋一氏。 自閉症、アスペルガー症候群、注意欠陥多動性障害など、発達障害の書籍を数多く上梓している医師です。10年ぐらい前から盛んにマスコミでも取り上げられるようになったADHD(注意欠陥多動性障害)について解説している入門書的書籍です。
以前は、親のしつけが悪い、もしくは愛情の注ぎ方や育て方が間違っている、子供自身の性格が悪いと見られていたものが、実は先天的な障害だったということが最近になっていろいろわかってきました。
そのひとつがADHD(注意欠陥多動性障害)です。
ADHD(注意欠陥多動性障害)。不注意、多動性、衝動性などを特徴とする発達障害です。
注意力や集中力などが続かずに、極端にそわそわして落ち着きがない特徴があります。同書によれば、「自分の行動をコントロールする機能が弱い」ということです。
それだけなら、子供時代はだれでもありがちですが、7歳を過ぎても改善されないと、ADHDと診断されます。「1クラスに1~2名いるのではないか」(同書)といいます。
落ち着きがなかったり、行動が度を越していたり、場の空気を読めなかったり、約束を忘れたりするために、人間関係を築けないことが少なくありません。要するに友だちができないということ。
勉強をしていても集中力が続かない、物事を段取り良く進められない、授業中もじっとしていられないということもあります。
教育現場で理解のない先生に当たると、先生からは「落ち着きのないダメな子」というレッテルを貼られるかもしれません。
そうしたことが、本人に疎外感を感じさせたり、いじめにつながったり、適切な対応をしないとともすれば非行に走ったりする場合もあると同書はいいます。
発達障害というと、知的な遅延、障害と思われがちですが、知能は正常でも発達障害である場合もあります。
また、「発達」といいますが、幼児だけでなく青年期や成人期以降に発達障害と診断されることもあります。
同書は、繰り返し、それは「育て方やしつけが原因ではない」ことを強調します。
我が国では、よく「親の顔が見たい」などといいますが、親の顔を見てもこの問題は解決しません。
ネットでは、高齢出産バッシングがすごいですが、高齢出産でなくても、発達障害はあり得ることです。
つまり、誰であっても、本人でもその子供でも、無関係ではない問題なのです。
同書では、図やイラストを用いて、その原因や症状、診断基準、治療法などについて解説。教育関係者への具体的なアドバイスも紹介しています。
親の育て方や、子ども自身の性格や心がけの問題ではない、ということが明らかになるのは、医学的に適切な治療をするためにも必要なことです。
何より、ネット掲示板などで、高齢出産バッシング、「キラキラネーム」バッシングなど、インケンな排外主義をむき出しにしている我が国のネット文化に対して、その根拠なき落書きを否定できるものだと思います。
発達障害の認定からさらに踏み込んで欲しい
ただ、私は、問題解決にはそこでもう一歩踏み込んでいただきたいと思うのです。
片付けができない、礼儀正しくないなどは性格や親のしつけのせいではない
ここまではいいです。
しかし、これだけですと、「片付けができない、礼儀正しくないことには事情がある」ということが明らかになっただけで、だから「できなくてもいい」というところまではいっていません。
つまり、ADHDの認定や啓蒙は、「発達障害」の存在を広めることはできても、
「本当はすべきなのに、事情があってできないかわいそうな人たちの障害なんだ」という新しい差別を助長するリスクがあり得る、と私は懸念しています。
たとえば、ネットでは、相手の書き込みを貶める言葉として、「アスペ」と書くことがありますよね。
アスペルガー症候群という発達障害の意義ある発見が、ネットでは差別用語に使われてしまっているのです。
といってももちろん、ADHDの認定が無意味だということではありません。
そうではなくて、私は、そもそも
落ち着きがない? 片付けができない? 人と関われない? だからどうした!
という“無責任”文化や、“向上心”のない価値観も尊重すべき社会であってほしいと思います。
……そう提案すると、「勤勉」で真面目な人達は、私のことを、なんて不謹慎と思うかもしれませんね。
でもね、そういう人たち、ちょっと考えてくださいね。
部屋が片付かないと生きていけませんか?
友だちがいない人は生きる資格が無いんですか?
そんなことはないでしょう。
むしろ、そういうことを「ねばならない」と、社会的な美学や至上の価値観に仕立てあげたことで、人々の間には、競争や見栄による牽制や、コンプレックスや排外主義をうんできたのではないでしょうか。
アスペ? そんなこたぁ、どーでもいいじゃねーか、という価値観なら、アスペは差別用語になりえないでしょう。
もちろん、礼儀や片付けをちゃんとできることを否定するわけではありません。
しかし、できない人、しない人など、いろいろな人がいて、この世の中が成り立っている、というふうに考えられないのか、という話です。
本当はできたほうがいいんだけど、この人は障害者だからできなくても仕方ない、では結局「この人」の疎外感は解決しないでしょう、という話です。
できない奴はおかしい、できるようにしろ、という価値観だけが覆うような息苦しい社会であるかぎり、どんな障害名をつけても、「できない人」にとっては本当の解決にはならないように思います。
つまり、ADHDを理解するという医学や教育だけでなく、文化や価値観など社会全体の問題だと私は思いますね。
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