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ハワイアンミュージック特集、バッキー白片、日野てる子など [芸能]

ハワイアンミュージック。ハワイで演奏される民族音楽やポップスなどをいいます。9月13日は、ハワイアン音楽家のバッキー白片さん(バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ)が、9月9日は女性ハワイアン歌手の日野てる子さんが亡くなった日です。

戦後、駐留軍の影響で、日本にハワイアン音楽のプロ・アマバンドが流行しました。

灰田晴彦・勝彦兄弟やバッキー白片、ディック・ミネなどがハワイアン音楽を歌い、そのゆったりとしたメロディーは、昭和20~30年代に日本の商業音楽界にもひとつの潮流を作ったといわれます。(←その当時を知らないので、書物などの受け売り)

バッキー白片とアロハ・ハワイアンズの『珊瑚礁の彼方に』というのは、youtubeにもアップされていますね。



そして、私の世代ですと、ハワイアン歌手といえばこの人です。

『夏の日の想い出』(1965年1月)

日野てる子・夏の日の思い出.png
夏の日の想い出/ワン・レイニーナイト・イン・トーキョー
日野てる子/ポリドール・オーケストラ
作詞・作曲:鈴木道明
編曲:前田憲男
日本グラモフォン

私はハワイアン歌手というと、このハイビスカスをさしたロングヘアーの日野てる子がまず思い浮かびます。

日野てる子は「全日本ハワイアンコンテスト」に優勝(62年8月)。“灼熱の歌唱”という異名で、「島」や「南国」の歌を次々ヒットさせたハワイアンソングの象徴的存在です。

とりわけこの歌は、歌手日野てる子の個性と素材が全面開花したといわれ、レコードの売り上げ枚数が100万枚を超える大ヒットになりました。

日野てる子さんのオフィシャルページにも、「歌謡史に残る名曲として、日野てる子の代表曲のひとつ」と記されていました。

この年から3年連続で『紅白歌合戦』に出場。翌年にはハワイアン音楽の本場であるタヒチ、サモア、ハワイに渡り、タヒチアン・ハワイアンの歌と踊りを習得したといいます。

この当時は、歌謡界もハワイアンテイストの楽曲が次々作られました。

その他、ハワイアン歌手という形容が出来る人としては、大橋節夫、尾崎紀世彦、和田弘とマヒナスターズ、渚ゆう子などは有名ですね。

石原裕次郎も出していますね。

この頃は、流行歌謡ですでに実績を作っていた人たちも、ハワイアン調の歌をリリースするようになりました。

そこまでくると、詳しい方はこう憤慨されるかもしれません。

「日本の歌手の持ち歌はしょせん“ハワイアン風”や、“和製解釈ハワイアン”にすぎない」

民俗音楽というのは、もともと少数民族や土着民族の悲哀やしたたかさを表現したもので、日本人が見るハワイとは立場が違うものです。

当時は渡航が今ほど自由ではないため、日本人にとってハワイは今以上にあこがれの観光地でした。

アメリカのフォークソングが日本に来たら“四畳半フォーク”になってしまうように、中華料理が“ラーメン”になってしまうように、先住民族の伝統音楽とは趣が異なるかもしれませんが、ハワイの「きらめく太陽」「ワイキキ」「ウクレレ」などもっぱら明るい面をイメージするハワイの歌が作られました。

そして、“和製解釈のハワイアン”もしくは“ハワイアン風”であっても、それが独自のジャンルとして歌謡界にひとつの時代を作ったことも確かなのです。

『渚のお嬢さん』(1965年7月7日)

渚のお嬢さん.png
渚のお嬢さん/月とヨットと遠い人
舟木一夫
作詞:関沢新一
作曲・編曲:松尾健司(編曲も)
日本コロムビア

『高校三年生』が120万枚、『修学旅行』が60万枚、『学園広場』が80万枚、『仲間たち』が48万枚など、出しても出してもヒットが続いた青春歌謡の寵児であった舟木一夫。

歌詞はまさに「きらめく太陽」「ワイキキ」をイメージするものですが、清潔感溢れる容姿や詰め襟学生服のイメージが強い舟木一夫に、これまでにない新しい魅力を引き出したといわれるのがこの歌でした。

『ポカン・ポカン』(1966年)

ポカンポカン.png
ポカン・ポカン/憶えているかしら
梓みちよ
作詞:A面三木トリロー B面横井弘
作曲:A面宮川泰(編曲も)B面:小川寛興(編曲:森岡賢一郎)
キングレコード

梓みちよは宝塚在学中に渡辺プロダクションのオーディションに合格し、62年に『ボサノバでキッス』でデビュー。63年に、NHKの番組『夢であいましょう』7月の歌になった『こんにちは赤ちゃん』で第5回日本レコード大賞・大衆賞を受賞。トップスターの座に駆け上がりました。

『渚のささやき』(1974年7月25日)

渚のささやき.png
渚のささやき/別れの予告
チェリツシュ
作詞:林春雄
作曲・編曲:筒美京平
ビクターレコード

7月23日の記事でもご紹介しました。チェリッシュにとって最後のオリコンランクイン曲でした。チェリッシュというよりも、ハワイアン音楽の終焉を象徴するセールスだったといえるかもしれません。

youtubeに曲がアップされていますが、イントロからハワイアン音楽的な旋律が採り入れられ、それまでヒットしていた歌に比べて、ゆったりと歌っている穏やかな一曲です。松崎好孝の澄んだ歌声による単独パートも聴くことができます。

あとは番外編としてこれはいかがでしょうか。

『二人だけの海』(1967年2月15日発売)

加山雄三/二人だけの海.png
二人だけの海/愛のすずらん
作詞:岩谷時子
作・編曲:弾厚作
演奏:ザ・ワイルド・ワンズ

加山雄三は、『ハワイの休日』『アロハ・レイ』という“ハワイの歌”もあります。

この歌は、ハワイというより、たんに失恋した人が海で未練を歌っているだけで“和製解釈のハワイアン”ですらないのですが、こじつけでこの歌を挙げたいと思います。

心に染み入る歌詞であることと、『クレージー黄金作戦』(東宝、1965年)で、“若大将”こと加山雄三がハワイで、“日本一男”こと植木等と“夢の共演”でこのうたを歌っているシーンが個人的に強く印象に残っているのです。

まあ考えようによってはこの歌はハワイでも江ノ島でもあてはまりそうですね。

作詞担当の岩谷時子氏は、ザ・ピーナッツの『ふりむかないで』や、園まりの『逢いたくて逢いたくて』のほか、いずみたくさんと組んで日本テレビの初期の青春学園ドラマのテーマソングを手がけた方です。

ザ・ピーナッツ.png
ザ・ピーナッツというと、蜂の巣ヘアの印象が強く残っています

園まり.png
スパーク3人娘はみんな歌がうまかったですね!

この当時はまだ東宝の文芸部員でした。越路吹雪のマネージャーをつとめたことでも知られていますが、ビジネスの関係ではなかった(つまり無報酬)といいます。

弾厚作というのは加山雄三のペンネームです。団伊玖磨と山田耕筰を足して2で割ったものとか。慶応の後輩の加瀬邦彦が率いる“弟分”ザ・ワイルド・ワンズらしい楽曲だと思います。

……ということで、民族歌謡や伝統文化の歌が流行してメジャーシーンに登場することはもうないかもしれませんが、ハワイアンミュージックが歌謡史の一潮流を担っていたことは覚えておきたいものです。

【関連記事】
・ハワイアンミュージックの“しんがり”はチェリッシュ『渚のささやき』
・チェリッシュの「ひまわりの小径」

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  • 出版社/メーカー: キープ株式会社
  • 発売日: 2012/05/30
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