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「放送できない話」はそれだけ? [社会]

戦後史上、情報化社会の最大の立役者ともいえるテレビが、曲がり角に来ているといわれています。

視聴者曰く、つまらない、俗悪番組が増えた、韓流やりすぎ、スポーツ番組にタレントを出演させた、特定の芸能事務所所属タレントの寡占状態である……等々不平不満はいろいろあります。

が、その最大の理由は、ネットの時代になって情報の質も量も変わってしまい、番組制作の意図や誤りやタブーなど、裏事情が見透かされてしまっていることにあるように思います。

そんな時代を意識したタイトルの著書「現代日本のテレビでは放送できない話」(山口敏太郎著、彩図社)というのがあったので、読んでみました。

現代日本のテレビでは放送できない話

現代日本のテレビでは放送できない話

  • 作者: 山口 敏太郎
  • 出版社/メーカー: 彩図社
  • 発売日: 2012/08/25
  • メディア: ペーパーバック


目次をご紹介します。
第1章 日常に潜むヤバイ話(高層マンションに住むだけで流産する確率が上昇する?/安心な鍵など存在しない?新解錠術「バンピング」とは ほか)/第2章 日本と外国の危ない話(本当は怖いブータン日本との友好は対中国戦略か?/謎の盗聴システム「エシュロン」実は日本にもあった! ほか)/第3章 テレビでは放送できない陰謀・都市伝説(着々と核保有国への道を歩む日本の原子力政策/TPPは日本を潰すための謀略である! ほか)/第4章 現代日本を脅かす様々な危機(脳を溶かす殺人アメーバが日本で発生していた!/巨大魚にカミツキガメ!?各地を席巻する要注意外来種 ほか)
まあ、結論として、ネットや過去の類似書を見ていれば、どこかに書いてある話ばかりかな、という気がしました。550円だから、多くを望むほうが間違っているのかな……。

ただ、おおもとのネタは既出でも構いませんが、それをそのまままとめるのではなく、そこから一ひねりがほしかったように思います。

ひとつ例を挙げておきます。

「判断を誤らせる『先入観』『思い込み』」という見出しの文章があります。

現代を「続発する少年凶悪犯罪」とマスコミがセンセーショナルに書き立てたり、「近頃の若者は」と嘆いたりするのは間違っている。殺人検挙者数は60年代と比べて現代の方が少ないのだから、と書いています。

これ、結構ネットでは有名な話ですよね。

つまり、昔の方が凶悪だというのは「思い込み」「誤り」だと、検挙者数という定量的な比較で昔の方が多いのだから、「昔の方がよかった」「昔に比べると今は……」と嘆く者はトンデモだといっています。

みなさんはどう思われますか。

実は、私はこの意見には留保をつける立場です。

というと、理系第一主義の方々は、私をコバカにしたくなるでしょうが、その前にちょっと私の言い分をお読みください。

「減っている」という数字の実態は動かしようのない現実ですから、もう肯定も否定もありません。統計では確かに、60年代よりも現代にむかってだんだん減っています。

ただし、それだけで「今は……」と嘆くことを「誤り」と断じてしまうのは、主張者の意図や自覚に関わらず、数字のトリックを指摘せざるを得ないと思うのです。

どういうことかというと、60年代と現代が、法律もモラルも文化も科学技術も教育行政もマスコミも、全く同じ条件なら、数字を比較して「減った。だから今の方がいいのだ」と論じることは何の問題もありませんが、そうではないわけです。

非常に荒っぽくまとめると、少なくとも現代は60年代よりも「豊か」で「非暴力」の方向にあるはず。「にもかかわらず」現代に起きているこの「凶悪犯罪」はなんだろうか、少し多すぎやしないか、悪すぎやしないか、という視点は頭から間違いとはいえない問題提起を含んでいると私は思います。

この「にもかかわらず」というのは、数字そのものの比較ではなく、数字をどう見るか、という価値判断が含まれますから、意見は分かれると思います。

でも、それでいいのです。

科学的判断というのは、真偽で決まるものです。だから数字を比較して、どっちが多いか少ないか、で決まるでしょう。

ただし、価値判断から真実に肉薄するというのは、様々な意見の中からその普遍性を見つける作業が必要なので、実はこちらの方がずっと難しいのです。

ですから、私はこの著者に、ネットに書かれているような、誰でもいえるありふれた紋切り型の結論で終わるのではなく、読者に考えさせる、もう一歩踏み込んだ見解や提案を示してほしかったなと思います。

余談ですが、科学的判断というのは、人心から独立した客観的なものだからさも崇高なように見えますが、科学は価値が伴わなければ成立しません。

そして、価値を考えるのは、私たち国民なのです。

原発やオスプレイの問題で、ともすれば、科学にシロウトの国民がものをいうのは片腹痛いような論評をする「専門家」の方もおられますが、科学知識の間違いがあれば正すのは当然としても、科学はいかなる価値で使われるべきか。それを考えるのは国民の権利であり、それを妨げることは実は科学の発展をも妨げる行為なのです。

私たちは、「専門家」の上から目線の批判など気にせずに、世の中のいろいろなことを大いに思索し、議論し、価値を確かなものに高めていくことで真の民主主義を実践したいものだと思います。
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半世紀少年

nice nice!
拍手ものです!
by 半世紀少年 (2012-09-06 06:46) 

さうざんバー

私もその通りだと思います(^^)v医療の世界は、科学的根拠を基に数字のマジックに結構振り回されているので、余計思いました!!(^^)v 
by さうざんバー (2012-09-06 14:34) 

ra35

niceありがとうございます
by ra35 (2012-09-06 16:15) 

はる

記事の内容、激しく賛成です。ネットでの犯罪数の話は有名ですが、単純に鬼の首でもとったかのように論じるのは、どうもしっくりこなかった私には、今回の記事、しっくりきました。そう、判断材料としてのデータ、統計ならいいですが、統計やデータがすべてで判断する危険性はやっぱり判断の権利を持っているはずの私たちひとりひとりが意識しないと、情報が氾濫するこのネット社会だからこそ大事な気がします。
たくさんの情報があって、多様な判断ができそうに錯覚してしまいますが、ある意味、一度大きくある方向に舵をきった「世論」がヒステリックに妄信的に止められなくなるような流れになることにも危惧したりします。
by はる (2012-09-07 02:09) 

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