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日本共産党第6回全国協議会 [戦後史]

◆1955/5/21 自主憲法期成同盟結成

前年1月には憲法擁護国民連合が結成されたが、それとは反対の立場から、自主憲法期成同盟創立総会を開会した。その2か月後には自主憲法期成議員同盟も発足。

しかし、一方では「憲法を守る」国民もたくさんいた。

戦争という大きな代償のある経験をしたことで、非軍事的なものへの期待が高まったからである。

◆1955/6/7 第1回全国母親大会

国際民主婦人連盟は、2千人の参加者を迎えて第1回の母親大会が豊島公会堂で開かれた。

日本子供を守る会や婦団連、その他大小の会や全国の母親たちが集まったこの会では、社会保障費・教育予算の増額、原子戦争準備の反対運動、原水禁世界大会などの決議を採択。

「生命を生みだす母親は、生命をそだて、生命をまもることをのぞみます」という合い言葉によって、婦人運動の存在価値を確認。これは2月にジュネーブで開かれた総評議会での呼びかけを受けてのものだった。

◆1955/7 総評、太田ー岩井体制に

揺れる政界の中で、労働運動でも動きがあった。

総評事務局長選挙で国鉄の岩井章が当選。合化労連出身の太田薫議長とともに「闘う総評 総資本対総労働の対決」路線を打ちだした。

いわゆる春闘といわれる産業ごとの賃金闘争も、この年から始まった。

◆1955/7/27 日本共産党第6回全国協議会 

日本共産党だけでなく、戦後政治史上でもエポックメーキングだったのが、いわゆる「六全強」である。

日本共産党の50年からこの頃までは、公然と活動し始めた戦後から今日までの間で、最も自己批判の必要な時期であった。

代々木の党本部で開かれた全国協議会では、分裂時の極左冒険主義や、社民主要打撃論などのセクト主義、徳田派にみられる家父長的個人指導の批判・反省と、統一した党活動に道を開く方向ですすめられていた。

今日の日本共産党の、他党にない「一枚岩」といわれる民主集中制や、他国の共産党の言いなりにならない自主独立の姿勢は、こうした苦渋の歴史的教訓と自己批判に基づいたものである。

しかし、その一方で党の分裂の経過や原因についての究明を完全に行えなかったり、51年綱領を「完全に正しい」とする過ちもこの時は残されていた。
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