SSブログ

社会党再分裂(サンフランシスコ体制の51年) [戦後史]

◆1951/10/23 社会党再分裂

日本社会党。この政党は戦後史上、いったい何度党内紛争を繰り返したことだろう。

もともと左派の労働農民党、中間派の日本労農党、右派の社会大衆党という三派が「共産党以外の革新同士の大同団結」で集まって結党したために、つねに路線と派閥の対立を抱えたむずかしい党であった。

結党後一時期の分裂の後、また統一していた日本社会党だが、このサンフランシスコ体制の両条約をめぐって再び左右両派に意見が分かれる。

左派は両条約に反対したが、右派は反共の立場から、アメリカや西欧の陣営を支持。共産主義と闘う立場をとるべきだと主張した。

今回の相違は国を二分する大きな問題だけに紛糾し、左派は芝中労働委員会会館で両条約反対を採決。右派・中間派は浅草本願寺で安保反対・講和賛成の方針を確認した。これによって、左派社会党、右派社会党と分裂した。
1951年、分裂直前に委員長に就任した鈴木茂三郎は「青年よ銃をとるな」と委員長就任演説で訴え、非武装中立論を唱えた。この考え方は厭戦感情の強かった当時の若者などにアピールして、分裂以後も非武装中立論を唱えた左派社会党は党勢を伸ばした。左派社会党躍進の背景には、総評の支援もあった。一方、右派社会党は再軍備に積極的な西尾末広と消極的な河上丈太郎の対立もあって、再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、さらに労組の支援も十分にうけられなかったために伸び悩んだ。こうして、左派優位の体制が確立した。この間、1952年には、社会革新党の後身である協同党が右派に合流している。(wikiより)
 
nice!(36)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 36

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

Copyright © 戦後史の激動 All Rights Reserved.
当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます