SSブログ

サンフランシスコ体制(サンフランシスコ体制の51年) [戦後史]

◆1951/9/8 サンフランシスコ体制

同日、サンフランシスコのオペラハウスで対日「講和」条約が調印(発効は翌年4月28日)された。

カギカッコづきの講和なのは、講和会議に参加したソ連、ポーランド、チェコスロバキアの社会主義国3国が調印拒否、インド、ビルマは「米軍の駐留は極東の紛争のもとになる」と会議を欠席、インドネシアやフィリピンは調印したものの自国の補償を明らかにしてもらえず、当初の対戦国である中国はオミットされるなど、留保付きだったからである。

率直に言ってしまうと、アメリカ側諸国向けの講和条約だった(全交戦国民の3割しか戦争状態を正式に終結できなかった)からである。

主な内容は
  • 朝鮮の独立確認
  • 外国(アメリカ)軍隊の駐留を認める
  • 日本が集団安全保障条約(軍事同盟)の締結を認める
  • 沖縄・小笠原の信託統治
  • 千島列島の領有権の放棄、米軍駐留の合法的根拠の明記

などであった。

全体として日本の民族自決という点で課題が残り、アメリカによる事実上の占領継続を指摘せざるを得ない面があった。しかし、吉田茂首相は、この条約を「公正にして史上かつてみざる寛大なもの」と自画自賛した。

また同日、両国の間には日米安全保障条約が調印された。実はこの条約は調印まで内容が公表されなかった。つまり、当初から軍事機密的色彩の強いものだった。内容は、日本と日本付近の米軍の駐留、基地の設定・使用、内乱騒じょう鎮圧のための出動などを定めたものである。

アメリカはこの軍事条約と前後してフィリピンと相互防衛協定(8月)、オーストラリア・ニユージーランドと太平洋安全保障条約(アンザス条約=9月)などを結び、環太平洋地域を西側陣営に引き入れることに成功していた。

こうした西側軍事ブロックの結成や、日本のアメリカに対する軍事的な同盟国としての戦後史上の新しい体制をサンフランシスコ体制と呼んでいる。

この体制でアメリカの抑圧が以後続いたが、日本共産党や労働運動を直接弾圧できなくなったことから、以後それらが息を吹きかえしてきた。


nice!(36)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 36

コメント 3

yakko

お早うございます。お越し戴きアリガトウございます。
by yakko (2010-07-19 10:27) 

Azumino_Kaku

お邪魔します。
ご訪問くださりありがとうございます。
戦後史は高校などの歴史の授業では時間切れであまり扱わないことが多いようですが、興味深い出来事がたくさんありますし、楽しみです。
これからもよろしくお願いします。


by Azumino_Kaku (2010-07-19 16:23) 

ASUS

母性のディストピアを読んでいてサンフランシスコ体制に引っかかり訪れました。
他のサイトより血が通っていてわかりやすいです。

ありがとうございました。
by ASUS (2017-11-16 15:43) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

Copyright © 戦後史の激動 All Rights Reserved.
当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます