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アニマル浜口さん、「気合だー!!」の礎となった飯場生活 [スポーツ]

アニマル浜口さん、「気合だー!!」の礎となった飯場生活

アニマル浜口さん(1947年8月31日~)の誕生日です。おめでとうございます。女子レスリング72kg級のアテネ・北京オリンピック銅メダリストである浜口京子さんの父親としてお馴染みですが、昭和プロレスファンにとってはまだ現役プロレスラーの記憶が残っています。



「落ちたら死んでしまう」ような危ない場所で仕事


アニマル浜口さんは、かつては国際プロレスに所属するプロレスラーでした。

国際プロレスとは、日本プロレスの営業部長だった吉原功さんと、日本プロレスを飛び出してアメリカで活躍したヒロ・マツダ選手によって1966年に設立。

が、1981年にアントニオ猪木率いる新日本プロレス、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに埋没する形で崩壊したプロレス団体です。

『実録・国際プロレス』(辰巳出版)という書籍には、かつて存在した国際プロレスという団体の、生き残り関係者23名のロングインタビューを掲載。

その中で、アニマル浜口は、プロレスラーになるまでを語っています。

それによると、浜口省吾さんは父親の事業の失敗で、中学を出たあとは家を飛び出して飯場生活を経験。

しかし、酔って市電を止め、迷惑をかけている先輩を見て、“これじゃ、いかん。俺の人生はダメになる。一から出直そう!”と、大阪の製鋼所に勤めることに。

しかし、飯場生活では、16歳で「落ちたら死んでしまう」ような危ない場所で仕事をし、職場の人間は「喧嘩をしたり、花札をしていたり」していたことで、「これだけのことを経験したら、何も怖いものはない」という度胸を身に着けたそうです。

そして、ボディビルジムに通い、国際プロレスの吉原功社長に直訴して、かなり時間がたってから入門を許可されます。

まだ若くて体ができておらず、レスラーとしてはタッパもなかった(178cm)から、吉原功さんも責任が持てないと思ったのでしょう。

自分は期待されてスカウトされた大物ではなく、直訴してもすぐに許可されなかった雑魚なんだ、ということをここで思い知ります。

飯場生活が人あしらいを教えてくれた


入門後は、グレート草津の付き人になります。


プロレスマニアならご存知ですが、グレート草津は、レスラーとしては練習嫌い、マッチメーカー(試合を組んで興行の流れを考案する人)としては自分以外のレスラーを売り出したがらない、何より酒ぐせが悪く、グレート草津自身がスカウトしたはずの同郷の肥後宗典は、耐えられなくなってジャイアント馬場の全日本プロレスに逃げ出したほど。

グレート草津は日本プロレス出身ですが、そのジャイアント馬場の付き人だったことがあり、付き人なのに飲んだくれて、勘定が足りなくなって馬場に持ってこさせたという、真偽は定かではありませんが仰天エピソードの持ち主です。

ですから当時のレスラーたちは、決してグレート草津をよくいいません。

しかし、アニマル浜口だけは例外です。

「僕は兄弟のような付き合いをさせていただきました。もちろん、先輩として立てていましたよ。でも、僕も言いたいことを言っていました。草津さんは言いやすいんですね。だから、心が通じていましたよ」

と、グレート草津を懐かしんでいます。

飯場生活で、酒を飲んでは花札と喧嘩の日常を経験していたアニマル浜口にとって、グレート草津の酒癖は、「一緒に酔っ払っちゃえばいい」程度のものだったといいます。

もうひとり、レスラー仲間では評判の悪い大剛鉄之助という人がいました。

「大剛さんは酒癖は悪いし、喧嘩っ早いし、何をやりだすかわからない危険性もあるし(苦笑)。だから、プロレスラーとして、いいモノを持っているんですよ。」

苦労した人生だけに、単に否定的に見るのではなく、見方を変えて積極的な評価をしています。

しょっぱいならなおさら一所懸命頑張ろう


国際プロレス時代のアニマル浜口は、同じぐらいの体格である、マイティ井上や寺西勇に比べて、決して巧いレスラーとはいえませんでした。

自分でも「しょっぱかった(巧くなかった)」ことは認めています。

ボディービル出身ですが、「腕力」「筋力」を売り物にするなら、外国人レスラーの方が日本人レスラーよりも桁違いの体格と体力です。

もとより、格闘技経験もないし、体も大きくない。

そこで自分は、とにかくファイトを全面に出した試合をしようと思ったそうです。

勝つ要素はどこを探してもない、ジャンボ鶴田との試合(1984年)では、小兵がとるような撹乱戦法ではなく、堂々と全力でぶつかっていき、3カウントを取られたあとは、「負けたー!!」と絶叫。

解説していたジャイアント馬場にその健闘を讃えられました。

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アニマル浜口のこんにちまでを支えた3つのこと


アニマル浜口さんの生き方を振り返ると、こんなことがいえると思います。

1.不遇な生い立ちを逆に生きるバネにした
2.嫌な奴と縁ができたら「いいところ」を見るようにする
3.自分は秀でたものがないありふれたレスラーであることを冷徹にとらえて、とにかく全力でぶつかる潔いファイトに徹することにした

飯場でいつ事故に遭うかもしれない生活をしていた人が、オリンピック中継で全世界にお目見えするとは、誰も当時同じ職場だった人たちは思わなかったでしょう。

凡人の私には、アニマル浜口さんの生き方、参考になります。

実録・国際プロレス (G SPIRITS BOOK)
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気合いダァ!二〇〇連発!!―アニマル浜口 魂を揺さぶる熱きメッセージ集

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  • 作者: アニマル浜口
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  • 発売日: 2005/03
  • メディア: 単行本


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コメント 9

pn

やっぱ気合は必要だな。
2のいいところを見るはさすがですね、見る事は出来るけど褒める事が出来ない俺は所詮小物(笑)
by pn (2019-08-31 06:11) 

ヤマカゼ

かなりの努力家だったのですね。
気にはなっていた方でしたが調べる事がなかったので、びっくりの引き出しを開けた感じです。
by ヤマカゼ (2019-08-31 07:04) 

Take-Zee

こんにちは!
デビューしてからひ弱なお兄ちゃんで
やられ役でした。
 それから数年、体もよくなり悪役として
再登場。 いらい今のイメージですね!

by Take-Zee (2019-08-31 15:45) 

我流麺童

国際プロレスを観ていた世代のため、グレート草津、サンダー杉山、アニマル浜口、ラッシャー木村、ストロング小林・・・、ストロングスタイルのプロレスが懐かしい。
by 我流麺童 (2019-08-31 16:07) 

ヨッシーパパ

若い頃の苦労が、今に生きてくるんですね。
by ヨッシーパパ (2019-08-31 16:09) 

たあさん

新日本プロレスでアントニオ猪木と国際プロレス軍団(ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇)の1対3の試合をよく見ていました。
by たあさん (2019-08-31 20:50) 

なかちゃん

好き嫌いは別として、目立つキャラクターだったと思います。
ボク自身は暑苦しいから近くに来ないでねって感じでした(^^;

by なかちゃん (2019-08-31 22:10) 

(。・_・。)2k

昨日 ジムの前でお見かけしました

by (。・_・。)2k (2019-09-01 03:42) 

Rinko

熱い方ですよね。「嫌な奴と縁ができたら「いいところ」を見るようにする」すごいなーと思います。
そう言えば、昨日のお昼の番組で娘の京子さんがお父さんのお誕生日に「大人っぽい服」を着て祝ってあげたいみたいな事をしていました。京子さん、もう41歳なんですね。

by Rinko (2019-09-03 08:39) 

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