「平穏死」なる言葉が流行しています。「高齢者が食べなくなったらお迎えだ、無理に生かすのはやめろ」との大合唱です。たとえば、認知症や長患いの介護に疲れた人には便利な言葉ですね。しかし、もしまた食べるようになる可能性があるなら、それはただの不作為ではないでしょうか。
「年寄りが食べなくなったらそのままお迎えだよ、回復するわけないだろう」
「平穏死」信者は、そう必死になって反論するでしょうね。
みなさんも、そう思われますか。
しかし、そうとは限らない、と医学常識をひっくり返してやるのが今日の話です。
卒寿を過ぎた私の母(独居)が、急に食べなくなって昨年秋に入院しました。
正確に言うと、わずかには食べていたのですが、入院して「点滴だけ」の生活が何日か続いたところで、それがトリガーになって完全に食べなくなりました。
たとえば、認知症患者にありがちな「食べることを忘れた」というのとは全く状況が違います。
本人曰く、「食べる気はあるのに、まずいし喉を通らない」「水を飲んでも苦い」
しかし、画像診断等では消化器や内臓の疾患は見当たらず、もちろん嚥下障害もありません。
症状としては、「老衰」ではなく「拒食症」のイメージでしたが、とにかく以後半年間、ほぼ
中心静脈点滴だけで生き続けました。
90近い老婆が半年間ですよ。
その間、胃腸を使わないということは、腸管免疫がはたらかなくなるため、免疫力が落ちて、点滴から3度、ふつうなら感染するはずのない菌に感染しました。
うち1度は、抗生剤が1%の確率で体に合わず、今度は肝臓と腎臓が破壊。
クレアチニンが人工透析直前まで上がってしまいました。
食べない上に、真菌に感染しまくり、そして薬剤性肝腎障害。
さらに感染で体はパーキンソン病のように震え、意識障害をきたしてほぼ24時間眠りっぱなし。
病院は、親類の面会をしやすいよう日当たりの良い一人部屋に移し、「何かあったら延命治療をするのか決めろ」と、私は毎日のように医師や看護師から責め立てられました。
しかし、たんに食べられないだけで、しかも原因不明だったので、勝手に「お迎え」とみなすのはいかがなものかと返事を曖昧にしたまま日がたち、そのうち抗生剤が奏効して菌はとりのぞき、肝臓と腎臓も、体のふるえも意識障害も治ってしまいました。
今にして思えば。よく敗血症にならなかったものです。
が、食べられないことだけは相変わらずだったため、病院からは改めて、点滴を取ることも選択肢として勧められました。
つまり事実上
平穏死を勧められたわけです。
しかし、私はそれを「おかしい」とおもい、拒否して点滴をつけたまま退院させました。
そして、流動物による経口摂取でカロリー管理を行い、徐々に胃腸の動きも復活させ、ついには通常の食事が自力でできるまでに回復させ、点滴も外しました。
今は、長男に、「すき焼きを食べに神戸に行こう」と誘うまでになったので、体調も戻ったのでしょう。
高齢者が食べなくなって衰えていくケースで、いったん刺した中心静脈点滴が外れるまで回復することは、まずないそうです。
もちろん、「食べなくなった高齢者」のすべてがそうなれるとは限りません。
しかし、
食べない高齢者のすべてが「お迎え」とは限らない、というのが私が今回言いたいことです。
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食思不振の原因は何だったのか
今回、どうやら思い当たる原因は、
1.長年の一人暮らしで「気ままな生活」による不規則な食生活
2.高齢者にありがちな歯周病など口内の汚れの長い間の積み重ね
などが食を細くして、さらに点滴だけの入院生活が、食思不振に決定的な加速をつけたようです。
つまり、高齢者が食べられなくなっていくのは、寿命ではなく「防げる生活習慣」に過ぎない場合があるということです。
それを、さも自然の摂理のように決めつけて、「やすらかにお休みください」と殺してしまうのは、やはり人としてどうなの? とおもいます。
そりゃ、高齢者は明日にでも、卒中や心筋梗塞でぽっくり逝くかもしれません。
でも、今回のような場合でも、「無理に生かすな」と言えますか?
生きとし生けるものの寿命を決めるのは人ではない、と私はおもいます。
両親でも義両親でも、命を大切にしたいというお気持ちがあるなら、「平穏死」というトレンドに逃げずに、後悔しないようベストをつくしたいですね。
ご希望の方がいらっしゃれば、「生還」にあたって使用した流動食など機会を見つけてご紹介しましょう。
なお、薬剤性肝腎障害の時は、やはり肝臓の疾患で治療されている、So-netブログユーザーのひでほさんのお計らいで、専門医のセカンドオピニオンを行ったことも、「平穏死」を否定できる根拠となりましたことを付言し御礼申し上げます。
※「平静死」ではなく「平穏死」でした。お詫びして訂正いたします
生きとし生けるものに幸あれ
「平静死」からの生還、食べられなければ「お迎え」なのか?・・・人間の生き死にに関して「社会的風潮」を作ろうという動きのほぼすべてをわたしは否定したいですね。なぜならばそうした動きのほとんどに「ビジネス」が関わっているし、「メディアの思惑」が関わっているし、「学者や識者の功名心」なども関わっているからです。そんなことで個人の生き死にを左右されたくない・・・これがわたしの基本的な考えです。
いっぷく様がいつもご指摘になる「ピンピンコロリ」もそうですし、そもそも「終活」という言葉もビジネス臭・メディア臭が色濃いです。わたしはこうした社会的風潮に乗って、よく考えもせずに人間の生き死にを、しかも人さまの生き死にについてまでどうこう言う風潮は危険であり、実に軽佻浮薄で気に入りません。
そしてこの風潮は、これもいっぷく様ご指摘のように高齢者排除の風潮に繋がっておりますよね。「もう、お迎えが~」なんていうことをとか「ピンピンコロリが最高」とかいう考えが浸透してしまったら、ちょっとでも体調の芳しくない高齢者に対して、(いい加減死ねばいいのに)という視線が集まる・・・そんなおぞましい社会になってしまいますし、高齢者だけでなく、マイノリティを嫌う人たちの増加も非常に不気味です。「老害」という言葉が軽々に使われているのも非常に憂うべき事態だと思います。
いつもお話しくださっている、いっぷく様のお母様のご状態・・・これも「人間の可能性」を考える上で、極めて貴重な素晴らしいことだと思います。わたしの母のこと、そしてわたし自身が心身のコンディションを崩していた時期などの経験から、人間の心身というものは医学的常識を遥かに上回る回復力を示す可能性が存在することも見てきています。
>寿命ではなく「防げる生活習慣」に過ぎない場合があるということです。
これは大変重要なご示唆だと思います。心身のコンディションの良し悪しは、意外と短運なことの中に隠れている場合がありますよね。そして多くの医療機関は毎日大勢の患者を複雑なシステムの中で動かしているので、どうしても対応がシステマティックになる傾向がありますし、さらに言えば、ほとんどの医療機関が毎日アップアップしながら動いている状態だと思いますので、実際問題、「一人一人を丁寧に」という以前に、「一番無難そうな過去の経験」をどの患者にも適用する傾向もあるのだと思います。
あと、抽象的でしかも理想主義的な言い方になりますが、「希望」といういものは絶対に必要だと思いますね。
た、た、た、台風が・・・またネット切断とかなければいいのですが。ニュースでは、「電柱が倒れるほどの風がふくかも」とか言ってますし(とほほ)。我が家の庭の木も台風の度に冷や冷やしてます。
それはさて置き、わたしもポポーは初耳で、購入したのはひとえに「50円」という嬉しい価格ゆえでありました。甘くて美味しいのになぜ今では・・・という疑問は持ちましたが、トロリとしてジューシーさには欠けるというのは一つのポイントかもしれません。しかしこれだけ市場から消えなくてもと思いますね。
>骨の髄までプロレスを思う気持ちが現れていて心底しびれました。
強縮です!しかし問題がありまして(笑)、「プロレスで勝負」が実行に移されたことがなかったのです。このようなケースで何度か、「プロレスやったら負けんがにゃあ(←土佐弁)」と言ったことは何度かありますが、スルーされてしまいました(笑)。わたしとしましては、「スポーツの根源は格闘技」という確信がありますので、他のスポーツで後塵を拝したところで「真の決着」は「プロレスないし格闘技」であると考えていたのですが、同意する人間はあまりおりませんでした(笑)。
ガーター連発と類似の体験もありまして、それはバッティングセンターの空振り連発です。わたしは小学時代からずっとプロレス一筋で、まあローラーゲームもありましたが(笑)、プロレス的鍛錬は欠かさずやってきたのですが、野球はもうまったくで、キャッチボールさえもしたことなく、もちろんバットも振ったことなかったのです。で、高校くらいからカープファンになったものですから、よせばいいのにある日バッティングセンターに付き合いましてですね、当たらない、当たらない(笑)。一緒に行ったやつらの優越感に溢れた表情に、(プロレスなら、秒殺なのに・・・)と心の中で地団駄踏みました。 RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2018-08-23 09:41)
お母様が回復されたこと、なにはともあれ本当に良かったと思います。
私の祖母は、寝たきりで言葉もほとんど話せず、胃ろうで命をつないでいる状態ですが、毎日のように見舞って話しかけている祖父の様子を見ているので、とても平静死などと口に出す気にもなれません。
by えくりぷす (2018-08-23 10:11)
病院や医者の都合で生き死にが決められているようで恐いわ
。
by pn (2018-08-23 11:52)
介護も、できることと、出来ないことがあるのは、
人によって当然で、仕方ありません。
でも、出来ないことを「平穏死」と呼び正当化して
できる人を「無理に生かしている」と、揶揄する
風潮は間違っていると思います。
by 犬眉母 (2018-08-23 17:25)
どんな状況下でも、食べることが楽しみな私には、口から物を食べられなくなったら、他に何処に楽しみを求めて良いのか、不安になります。
by ヨッシーパパ (2018-08-23 19:31)
仕事で看取介護もしてますが、あくまでも主治医とご家族との話合いです。納得出来ない事も多いですが・・・。
by kou (2018-08-23 19:39)
平穏死を良しとする風潮があるのですか。
過剰に延命治療を追求してきた反動みたいなものもいくらかあるのかもしれませんが‥
もしや、医療費を削減しようという意図もあるのでは。
お母様が点滴を受けていて病気も起きたのに、その後そこまで元気になられたとは。素晴らしいことですね。
食事が取れない、といっても、色々なケースがある、ということを知らない人もいるんでしょう。
重篤な病気があるか、内蔵全体が弱っているか、といったことが、全く千差万別、人それぞれです。
うちの母も中心静脈の点滴を受けるかどうか、まず聞かれましたが、まだ生命力はあると思い、点滴してもらいました。母の場合は色々な病状があり、最後の入院とはわかっておりましたが。
伯母は一時的に胃ろうを受けた後、数カ月後には食べられるようになりました。そういうケースもありますからね。
by sana (2018-08-23 20:43)
自分の身に置き換えると『半年間の静脈点滴』に、
こちらが耐えられるか試されていますね。
by kiki (2018-08-23 22:04)
社会的風潮により左右される生死、病院と医師の都合の方が優先されてしまう風潮があるのは事実だと思います。
ただ自分自身の身に置き換えた場合、そこまでの生への執着はない。
生きている今と同じくらいの気楽でいたい、あえて苦しみや痛みに耐えたくはないから、自分自身の意志がなくなった場合、死へ進んでいくのも悪くないと考えています。
by hana2018 (2018-08-23 22:51)
「入院」と「歯周病」が、こじらせた原因ですね。
by うつ夫 (2018-08-24 00:29)
>年寄りが食べなくなったらそのままお迎えだよ、回復するわけないだろう
「食べなくなったらお迎え」ということはないと思うのですが、そういうことを思う人がいるというのが残念です。
by ナベちはる (2018-08-24 00:31)
みなさん、コメントありがとうございます。
>「入院」と「歯周病」が、こじらせた原因ですね。
>by うつ夫 (2018-08-24 00:29)
そのとおりです。
歯科クリニックの外来をきちんとしていれば
それで済んだことだったのかもしれません
でもまあ、それは結果論で、
高齢者が食欲不振なら、じゃあ点滴で栄養を補って
という急性期の対応は間違っていないと思います。
by いっぷく (2018-08-24 03:02)
いっぷくさんがお母さまの退院後に行った「流動物による経口摂取でカロリー管理」を病院側では積極的に行ってはくれないんですね。
なんだかそこが腑に落ちませんが・・・今はどこの病院もそうなんでしょうね。
by Rinko (2018-08-24 07:48)
コメントありがとうございます。
>なんだかそこが腑に落ちませんが・・・今はどこの病院もそうなんでしょうね。
病院は診断のついたことに対する処置だけで、原因不明の「食べない」は「お迎え」扱いのようです。
by いっぷく (2018-08-24 22:52)
>専門医のセカンドオピニオンを行ったことも、「平穏死」を否定できる根拠となりました
セカンドオピニオンという主体的な行動は(何かにつけて)大切で忘れてはいけない在り方ですね。これは難局を打開する一種の勇気だとも言えます。
by 扶侶夢 (2018-08-25 00:00)
テレビのドキュメンタリーで
食欲の無い老人が
歯の治療だったかな
食べる喜びを取り返して
目つきまで蘇っておられるのを見ました。
いろいろなケースがあるでしょうが
簡単にはいかないですよね。
家族の情熱に勝てる一般論はありませんね。
by そらへい (2018-08-25 23:06)
すごく勉強になりました!!!!
ありがとうございます。
by 風の友 (2018-09-04 01:23)