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坂本九は曲直瀬信子の“逆張り”の引き抜きで誕生した [東海道スポット]

坂本九の母校は川崎市立川崎小学校。旧東海道川崎の日進町にあります。そこから現在の日本大学中学・高校(日大日吉)に進み、在学中からドリフターズのボーヤになり後に正式入団。さらに、日劇ウエスタンカーニバルの活躍が曲直瀬信子の目に止まり、ダニー飯田とパラダイス・キングで本格的な歌手としての歩みを始めます。(今回も敬称略)

前回は旧東海道川崎宿を歩き、八丁畷の芭蕉の碑の近くに川崎市立川崎小学校があったので立ち寄りました。

川崎市立川崎小学校

小学校の正門には、佐藤惣之助と坂本九が卒業生であることと、2人の功績が簡単に書かれていました。

川崎市立川崎小学校の解説板

そして、そこに書いていなかった“坂本九の本名の真相”について、永六輔著『六・八・九の九 坂本九物語』(中央公論社)に理解を助けてもらいました。

今回は、川崎市立川崎小学校卒業後を書き進めていきます。

芸能界デビューの経緯


坂本九は川崎市立川崎小学校を卒業後、日大横浜学園(現日本大学高等学校・中学校、日大日吉)に進みます。

そして、在学中から義兄のツテで、ウエスタンバンドのサンズ・オブ・ドリフターズのボーヤ(付き人)として、芸能界に関わるようになります。

サンズ・オブ・ドリフターズというのは、のちにいかりや長介がリーダーとなって一時代を築く、ザ・ドリフターズのことです。いかりや長介は三代目のリーダーです。

『ドリフターズですよ!全員突撃』より

そして、1956年にドリフターズに正式加入。ジャズ喫茶や進駐軍のキャンプまわりで、月給はすべて母親に渡していたとか。

坂本九は、中学以来の持ちネタである“エルヴィス・プレスリーの物まね”の評判がよく、日劇のウエスタンカーニバルにお呼びがかかります。

日劇ウエスタンカーニバルというのは、この当時で言うと、ジャズ喫茶のスターたちを一同にあげてファンとともに熱狂する伝説のイベントです。

渡辺晋(渡辺プロ社長)の妻、渡辺美佐(旧姓・曲直瀬美佐)のプロデュース。

出演者は、平尾昌章(現平尾昌晃、以下昌晃)とオールスターズ・ワゴン、ミッキー・カーチスとクレイジーウエスト、山下敬二郎とウエスタンキャラバン、寺本圭一とスイング・ウエスト、かまやつひろし、井上ひろし、水原弘の「3人ひろし」などが揃ったそうです(ビリー諸川『昭和浪漫ロカビリー』平凡社より)

そして演奏者がスゴイ! 

ドリフターズの初代リーダー・現第一プロ社長の岸部清、ホリプロ創業者の堀威夫、サン・ミュージックの創業者である相澤秀禎、田辺エージェンシーの田辺昭知……。

坂本九の兄である坂本照明氏が著した『星空の旅人』(文星出版)には、日劇ウエスタンカーニバルで、16歳の坂本九が右端で緊張している写真が掲載されています。

ウエスタンカーニバルの坂本九
『星空の旅人』(文星出版)より

日劇ウエスタンカーニバルでは、当時の若手である小野ヤスシや坂本九などにも歌うチャンスが与えられました。

坂本九は大舞台をチャンスと捉えて、『リトル・リチャード』『センド・ミイ・サンラビィング』などを歌い、渡辺美佐の実妹の曲直瀬信子は、ドリフターズからの引き抜きを考えます。

ダニー飯田とパラダイス・キングというグループで、ボーカルを担当していた水原弘がソロ歌手になるため、その後釜にしたかったのです。

ドリフターズのリーダーである岸部清は、もちろん気色ばみました。

「だって、美佐さんに言われて手伝ったわけですから、その妹に自分のタレントが抜かれるということはない。/でも、信子の、九に対する評価は私より高かったし、井上ひろしもいたしで、じゃ行ってこいと送り出したんです」(『六・八・九の九 坂本九物語』で岸部清)

岸部清は、坂本九を歌手としてはあまり評価していなかったようです。坂本九がボーヤになった当初は、こう思っていたそうです。

「どうしても歌いたいっていうんですけど、なんたってあのニキビでしょう。/無理だって言ったんですよ」(『六・八・九の九 坂本九物語』で岸部清)

それに対して、曲直瀬信子は、なぜ、どうやって坂本九を引き抜いたのか。

「必ずスターになれます。スターにしてみせます。/九のように、どこにでもいる人がスターになれる時代になっています。/これからはテレビの時代です。/九はテレビでスターになれる子です」(『六・八・九の九 坂本九物語』で書かれた曲直瀬信子が坂本九一家を説得した時の内容)

『星空の旅人』によると、ダイレクトな「移籍」ではなく、いったん学業に戻ってから芸能界に「復帰」という段取りを踏んだそうです。

この世界、バンドマンの離合集散はよくあるのですが、「引き抜き」については業界の仁義や周囲のやっかみなどもありますから、やはりけじめが必要だったんですね。

かくして、マナセ・プロに所属する、ダニー飯田とパラダイス・キングの一員としての坂本九が誕生します。

人との出会いとやりたいことを遠慮しないひたむきさ


この経緯で興味深いのは、曲直瀬信子が坂本九を引き抜いた理由です。

平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスらよりも歌手として優れているから、ということではなく、テレビという未知の媒体で活躍できる可能性があるから、という理由です。

しかも、歌がうまいからとか、二枚目だからといった理由ではなく、「どこにでもいる人がスターになれる時代」だから、というもの。

同じ頃、競合ジャンルで活躍していた平尾昌晃は翌年に日活映画に、小坂一也は松竹映画に出演し、同社と専属契約して俳優になります。

バンドマンにとってはジャズ喫茶が当時の大切な仕事場だったわけですが、次のステージとしての花形舞台は、当時はテレビではなく映画だったわけです。

当時、銀幕のスターという言葉がありました。映画で客を呼ぶ人材を求めているのに「どこにでもいる人」というスカウティングではあり得なかったでしょう。

そんな中で、未知のテレビに着目し、またそのテレビにはどんな人材が求められるかまでを読んで、そのような“逆張り”の理由で引き抜いた曲直瀬信子の慧眼が何と言っても興味深い。

「ジャズの次はロカビリー」と山下敬二郎のステージを見て直感し、姉の美佐に進言したのも曲直瀬信子といいます。(ビリー諸川『昭和浪漫ロカビリー』平凡社)

いずれにしても、曲直瀬信子がいなかったら、後の国民的歌手・坂本九は誕生していなかったといっていいでしょう。

人生はいかに出会いが大切か、そして、最初から無理だと諦めずやりたいことがあったらチャレンジすることが大切だと思いました。

もし、坂本九が「僕みたいなニキビは、どうせスターになれないや」と思っていたら、曲直瀬信子に目をかけられる機会もなかったかもしれません。

人生は偶然と必然によって構成されています。

偶然自体はどうすることもできませんが、必然の部分を頑張れば偶然の機会をつかむことができる……かもしれません。

ということで、『上を向いて歩こう』までこないうちに、2000字を越してしまいました。

ソロ歌手に転向以後の話はまたいずれ別の記事で書こうと思います。

星空の旅人 坂本九

星空の旅人 坂本九

  • 作者: 坂本 照明
  • 出版社/メーカー: 文星出版
  • 発売日: 2003/05
  • メディア: 単行本


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