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小保方晴子氏会見、“理系は偉い”論が破綻してある意味スッキリ [(擬似)科学]

小保方晴子氏会見で持ちきりですね。相変わらず、涙流せば同情する単細胞な人っているんですね。すでに『週刊文春』が予想していましたが、ああいうスタイルの会見で、コロッとひっかかる人が多い国なんだなと、改めて心寒い思いがしました。

今回は、生物細胞学を含め科学(者)を愚弄したことにならないのか、税金の使われ方としてふさわしいのか、など決して軽くない問題であると思うのですが、ネットのアンケートでは、半数以上が「誠実に会見したからいい」としているらしいですね。

そりゃないでしょう

そう思いませんか。

理研の運営は税金が動いているわけです。

なんで血税をお預かりして研究している人に、大衆はそんなに甘いの?って私は思います。

そんなに気前がいいんだったら、私の代わりに税金払ってよって言いたいですよ。

ネット掲示板では、彼女を褒め称えるスレッドがたっていますが、ネット掲示板のくだらなさが改めてわかります。

あるときは必要以上に誹謗中傷し、それが一段落すると(飽きると?)、今度はチェックすべきことをせずに逆のこと(同情や絶賛)を始める。

ネット掲示板の悪いところは、批判がきついからではなく、そこに道理も論理も根拠もモラルもないことです。

科学的に、彼女の言う「STAP細胞はあります」は、「ドラえもんはいます」と同じレベルの話です。

科学は「ない」ことを証明するものではないので、「STAP細胞はない」ことは証明できません。

つまり、ドラえもんも、はなかっぱも、存在しないという証明はできないのです。

ただし、「ある」ことについても客観的に厳しく見なければなりません。

彼女は「真実」という言葉を軽々しく使っていましたが、科学的真実というのは、客観性や再現性をきちんと認められたものです。論文がなければ文字通り論外なんです。

その論文が今回問題になっているわけです。

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彼女が言う「200回作製した」のは、幽霊を見た体験談と変わりありません。

きっと幻ではないのだと信じて研究するのはいいのですが、その時点で「真実」などと言ってはなりません。

だいたい、その点だって、「200回作製したら数年かかる」って、ほかでもない理研内で突っ込まれていると報じられているじゃないですか。それほど頻繁に成功できるのなら、会見で示せたのではないでしょうか。

だから、研究者は誰も評価していませんよね、会見を。

だって評価のしようがないから。

むしろ、今回の会見で、科学者ではない私たちにも、とても血税で重要な研究を任せられるマインドの人ではないのだな、ということが改めて判明してしまったのではないでしょうか。

ある意味、彼女の強かさは評価できますけれどね。

私も無学の文系だから、彼女の涙にまんまとひっかかっている人たちを見ると、正直ゲンナリします。すごく嫌な気持ちになります。

ああ、自分もちょっと判断を間違ったら、こうなっていたんだろうなって。

理系だから起こったのではないのか


昨日もご紹介した、『日刊ゲンダイ』における高橋乗宣氏の連載「日本経済一歩先の真相」(4月5日付)には、「エコノミストの領域ではないが、研究者のひとりとして看過できない問題」として、小保方晴子氏問題に言及しています。これも興味深いので一部引用します。
日刊ゲンダイ・高橋乗宣4-5.png
実験にのめり込んでいる理系の研究者の多くは、論文を書く機会が極めて少ない。そこが文系の研究者と違うところだ。文系であれば、論文を書き慣れているしトレーニングも積んでいる。どのように表現するのが適切かも理解しているから、この手の失敗は起こさない。
 小保方さんの論文は、博士論文と画像が酷似している点が「捏造」とされたが、論文の作成で引用は決して珍しいことではない。広く行われていることだ。ただ、誰の何を引用したのかは、きっちりと明記しなければならない。(中略)研究者としての生命を絶とうとする調査委員会のメンバーも、理系の研究者を中心に構成されている。やはり小保方さんと同じで、論文のイロバを知らないのだろうか。あるいは知っていながらも、組織を守るために個人をバッサリと切ったのだろうか。
今回は、理系が論文を書く訓練をしていないから起こったことだ、と高橋乗宣氏は書いているわけです。

理系の人には、アタマに血が上る指摘かもしれませんね。

だって、理系は論文を書くが文系は論文を書かないっていうのが、理系が文系をコバカにするひとつの根拠でしたからね。

私は、以前、疑似科学を科学的批判的に究明する学術的団体の役員をつとめていました。

その前任者の大槻義彦という人は、ご本人のサイトや著書を見ても分かる通り理系至上主義者で、いちいち人を紹介したり言動を評価したりするのに、この人は文系(理系)だから……、という注釈を付ける人です。それがどうしたっていうんですよね。

団体の役員会は、いわゆる物理学帝国主義に貫かれ、会議では物理学者が、物理学>その他理系>文系、という格付けを前提に話をするので、研究者でもない私はもうウンザリして、弁護士の紀藤正樹さんや松尾貴史さんらを役員に推薦して、その団体を逃げ出してしまいました。

その大槻義彦さんが言うには、とくに社会科学系の法学や経済学は卒論を書かない。論文を書かない研究などありえないから理系>文系だ、という偏見をぶちあげていましたが、今回、見事に理系がヤッてくれたわけです。しかも大槻義彦さんのいた早稲田出身で(笑)

今回の騒動は残念だし不快でもあるけれども、個人的経験からいうと、一部物理学者から念仏のようにずっと聞かされ続けたデタラメが破綻して、ざまあみろというか、もう十何年ぶりにモヤモヤがはれたような爽快さも正直あります。

彼らを偉い人達の特殊な世界と聖域にするのではなくて、科学者の特権意識や隠蔽体質、そして昨今の科学者教育など、あらゆる面できちんとチェックをしていく仕組みや見方が社会や国民の間にできないと、これからも、こういう問題は起こりうるし、涙の会見でコロッと騙される無様な幕引きで何の解決も得られないでしょう。

科学者という仕事―独創性はどのように生まれるか (中公新書 (1843))

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  • 作者: 酒井 邦嘉
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2006/04
  • メディア: 新書


タグ:小保方晴子
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