『「医療否定本」に殺されないための48の真実』(長尾和宏著、扶桑社)という書籍を読みました。もうタイトルだけで「買い!」です。私は医療を無謬万能とは思っていません。ただ、一側面を切り取ってセンセーショナルに書きたて、長年の風雪に耐えて発展してきた医学・医療を否定するような論法にはどうしても賛成できないのです。
最近は、医療の常識を否定する書籍がもてはやされています。
たとえば、こういう説は聞いたことありませんか
・抗がん剤治療は否定しろ、患者はがん治療ではなく抗癌剤で死ぬ
・がんは治らないか転移しないかなので放置しろ
・血糖値も血圧もコレステロール値も高いほうがよい 等々……
普通の病院で、治療を受けている医師の話とは違う「新鮮」な話に、治療に苦しんだり及び腰だったりする人々は、思考停止状態で鵜呑みにして飛びつきます。
しかし、もし、それが正しくなかったら後悔しませんか?
『「医療否定本」に殺されないための48の真実』。著者の長尾和宏医師は、勤務医などを経て現在は尼崎で開業しています。その「町医者の経験」でこんなことを思ったそうです。
注目を集めている「医療否定本」の多くは、あまりに極論であり、誰にでも当てはまる話ではありません。むしろ、当てはまらない人のはうが多いように思います。そのため、“本の副作用”ともいえる、負の影響が大きく出ているのです。
長尾和宏医師が言います。
多くの医者は、患者の闘病の一部分しか見ていない。町医者は結末まで見ている。だからこそ、その是非を語れる。
多くの人は勘違いしているのですが、医師が「専門」なのは自分の診察科、学者が知っているのは自分が論文を書いているテーマだけです。
たとえば、物理学者だからといって、物理学全体の最先端事情に精通しているわけではないのです。
つまり、がん治療を語っている医師たちは、自分の担当分野である、外科や放射線科や腫瘍内科の世界観で語っているに過ぎません。少なくとも臨床経験のない他分野との連関に責任をもって語っているわけではないのです。
同書は、タイトル通り、「医療否定本」によく出てくる48の「新説」について、反論・反証を行っています。
たとえば、水は1日2リットル以上飲め、なんていう「都市伝説」を盲信している方はいらっしゃいませんか。
同書は、「尿の濃さを見て飲水量を加減」と書いてあります。
まあ普通の人がいちいち排尿のたびに診てもらうわけにはいきませんが、たとえば高齢者は「自分が欲しい分だけ飲めば十分」と書かれています。要するに、2リットルも飲む必要はないのです。
ただ、同書は医学常識を押し付けて「ねばならない」と居丈高にお説教するものではありません。
がん治療において、漢方薬や温熱療法、休眠療法なども否定していません。「患者さん自身が納得し、満足することがいちばん」と書かれています。補中益気湯や十全大補湯などが免疫力を上げて体力を回復させる、とも書かれています。
医師の立場からすると、民間療法や擬似科学に対抗するため、つい通常医療を強調しがちですが、がん治療に絶対はない、という前提にたっているので、書かれていることに押し付けがましさがありません。
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「がんもどき」はあと出しじゃんけん
私が、思わず「その通り!」と快哉を叫んでポンと膝を打ったのが、「真実14」の『「がんもどき」はあと出しじゃんけん』という章です。
私が過去のブログで書いたことと同じ趣旨のことが書かれています。
長尾和宏医師曰く、『「がん」か「がんもどき」かが先にわかれば苦労しない』
私はすでに2年前のブログで、「がん」か「がんもどき」かを先に診断するのは難しいとする近藤誠医師の発言を問題視していました。「
近藤誠医師の「がんもどき」理論、生還の事実をどう見る?」という記事です。
長尾和宏医師の見解は、「がんもどき」という表現は絶妙だが、本物のがんは転移し、がんもどきは転移しないというのは論理の飛躍があると指摘しています。
なぜなら、がんというのは、がんか非がんかという二元論では説明がつかないからです。
がんでないものが、がんに転化することもあります。悪性リンパ腫のように、「がん」の範疇で悪性度が途中で変わるものもあります(これによって治療法も予後もガラッと変わります)。著者はそれを「がんは揺れ動く」と表現しています。これも絶妙な表現です。
今の医学は、揺れ動く転化の見込みをきちんと見極めることはできません。
つまり、そうしたがんの複雑な進行や性質の現実を見る限り、「がん」か「がんもどき」かを先に診断するのは今の医学ではむずかしいということです。
少なくとも近藤誠医師自身が、それに対して白旗をあげているのです。
それは、「がんもどき理論」はまさに「あとだけじゃんけん」でしか成り立たない机上の空論、ということではないでしょうか。
結末が出てから、後ろ向きに「あれはこうだった、ああすべきだった」というのは簡単ですよね。でも、だったなぜ事前にわからないのか、と思いませんか。
もちろん、「がんもどき理論」流行の背景には、医学的根拠というよりも、医療過誤や、逆に医療に対する過ぎた期待などがあるように思いますので、それらの解決も求められるとおもいます。
近藤教信者の矛盾
私がこの問題を書くとよくコメントしている、近藤誠理論の信奉者がいらっしゃいます。
その人は、病院にはかかるべきではないという持論を繰り返されるのです。
身内を厳しい治療で亡くされたからだと思います。
何を信じるかはその人の自由ではありますが、一方で、その方の連れ合いががんになったらしく、その時は手術をしているんですね。
そう、自己矛盾なんです。
「なんだよ、医者にはかからないんだろう」って突っ込みたくなります。
要するに、自分に近い人が亡くなったことで、その怒りと悲しみの矛先を医療に向けていただけなんですね。
かといって本当は否定しきれない。
近藤教の信者に、こういうパターンて多いんです。
断固医療否定するという意思なら翻意するつもりはありませんが、感情だけで医療を「許せない」と思うのは、自分を含めた残された人間にとって決してプラスにはならないと思います。
これまで何度も記事にしたように、私は民間療法を否定していません。
また、妻子が揃って意識不明の重体で担ぎ込まれたことで、今の医学・医療の恩恵もあずかれた一方で、まだまだ課題も多い世界なんだな、ということも知ることができました。
そんな「いい面」も「悪い面」も見た私ですが、結論として医療否定の立場にはたちません。
病院にかかれば、すべての病気がかならず治るわけではありません。
だけれど、多くの臨床例とエビデンスという点で、民間療法などは太刀打ち出来ない実績と信用があるのも確かなのです。
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