『日本を救うC層の研究』(講談社)を読みました。著者は、『日本をダメにしたB層の研究』などでお馴染みの適菜収氏です。タイトルは『C層』ですが、例によって大半は「B層的なもの」の批判と解説に割かれ、最後にC層に期待をするという構成です。具体例として、日本維新の会・橋下徹氏の批判とそれを「保守」と見て支持することの危うさを述べています。
私はこのブログですでに、『日本をダメにしたB層の研究』についてのレビューを書きました。
>>日本をダメにしたB層の研究、その居丈高な衆愚論
そもそも、BだのCだのとはなんぞや、と思われる方のために、おさらいをしておきます。
かつて、自由民主党・小泉純一郎政権が、郵政民営化を啓蒙するための企画段階で、有権者をIQと構造改革に対する考え方という2つの軸での4つの分類を行いました。
A層……IQが比較的高く構造改革に肯定的。
B層……IQが比較的低く構造改革に中立的ないし肯定的。
C層……IQが比較的高く構造改革に否定的。
その他……IQが比較的低く構造改革に否定的。
そこで定義されたB層というのは、政治に対してはノンポリ(深く考えない)で、政策よりもイメージで投票。ポピュリズム政治に騙されやすい人々です。
選挙では実際に、そういう単純な大衆をターゲットにして、そのレベルに合わせたワン・イシューというわかりやすい訴え方で小泉純一郎氏は選挙に勝ちました。
で、その層の批判を著書で行っているのが適菜収氏です。
適菜収氏はさらに踏み込んで、B層が日本の文化や社会の価値観全体を歪めてしまっているとし、「知識」がネットに依存していることもその大きな特徴であるといいます。
具体的にB層ってイメージできますか?
たとえば、オリンピックや佐村河内守氏に「勇気をもらう」人々、テレビやネットのステマにひっかかる人々なんていうのもB層というわけです。
ま、大衆の多くは残念ながらその中に含まれますよね。
私は、著者が指摘する、そのような愚かさの実態を否定はしません。
ただ、前回の記事にも書いたように、大衆をB層たらしめるのは為政者やマスコミなどに大もとの責任を見る必要があり、また、何々層というのは決して固定的なレッテルではなく、人間誰しもが間違いうる、つまりA層とみられた人が、B層に転落することだってあるのだ、という留保をつけました。
すると、著者本人かファンか知りませんが、さっそく罵倒のコメントをつけて行ってくれました。
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気に入らないレビューが発表されるたびに、そんなことをしているのでしょうか。
ご苦労なことです。
半可通(B層)のふるまい方をどう考えるか
今回は、タイトルが「C層」ですが、中身の多くはB層的なものの批判に費やされています。
たとえば、論評に値しない民主党政権、橋下徹氏のハチャメチャな言動、モノマネ番組の衰退など。
そういうくだらないものの流行はB層が支えた、という論理です。
なるほどな、そうだよな、と思うこともずいぶんたくさん書かれています。
日本新党、民主党、日本維新の会……、近年、イデオロギー的にわかりにくい勢力が支持を集めますが、B層の「破壊願望」「改革気分」によるものであると指摘する著者。
そう、改革「気分」なんですよね。
だからブームがおわるとあっという間に衰退する。
その個人版はもちろん橋下徹氏。
何かぶちあげても、いつの間にかさりげなく取り下げて新しい話題を提供する。しかも、その内容はめちゃくちゃ。
同書にはこう書かれています。
「テレビのバラエティー番組の視聴者は、一分前に誰が何を言ったかなど覚えていません。それよりも新奇なもの、声の大きいものに注目する」
橋下徹氏は自らを「保守」とし、また保守的な期待をかけている有権者も少なからずいますが、著者はそれをまっこうから否定。
さらに、菅直人氏と橋下徹氏の共通点を挙げ、デマゴーグが多い点で、橋下徹氏がより悪質であると指摘しています。
私は同書について、そのような指摘の数々には同意できることも少なくないのに、やはりすっきりしないものが残ります。
それはやはり、繰り返しになりますが、根本的なところ、B層についての考え方の違いがあるからだと思います。
『日本をダメにしたB層の研究』にはこう書かれています。
そこでは、知が軽視され、無知が称揚される。バカがバカであることに恥じらいをもたず、素人が素人であることに誇りを持つ。素人が圧倒的自信を持って社会の前面に出ていく。こうした社会の主人公がB層です。B層とは、近代において発生した大衆の最終的な姿です。
著者は、社会が開かれたものであることに賛成していません。
半可通がいい気にならずに、専門家に任せて、素人は黙ることが必要だ、という立場です。
私はそうは思いません。素人でも自由に主張したっていいじゃないか、という立場です。
ただし、ろくに勉強もしていないくせに、ネットサーフィンで得た断片的な知識を拠り所にさかしらな主張をする半可通は、専門家の価値を思い知って欲しい。
それで現実を知ることにより、基礎からちゃんと勉強しなおしてその専門家を脅かすようになるか、諦めて黙るか、どちらかを選択すればいいことで、いずれにしてもその機会を否定すべきではないと思います。
機会を否定することは、既存の価値観をぶち破る新しい専門家誕生の可能性もつぶすことになります。それは、いわゆる国益にも反することではないでしょうか。
そして、半可通をはずかしいものとする精緻な社会にするためには、大衆が大衆を批判することをタブー視してはいけないと思います。
機会を与えることと言論の厳しさはセットであるべきだと思います。
たとえば、Facebookで批判や異論はめったに見られませんが、あれは稚拙な意見や客観的な誤りすらも支えてしまう消極的なB層的潮流の温床です。
SNSでもブログでも、半可通を間違いは間違いとして諫める、厳しいかもしれないけれど当たり前のことが文化として根付かないと、B層なるものの弊害は今後も社会にはびこるだろうなと私は思います。
日本を救うC層の研究
- 作者: 適菜 収
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/07/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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