気になるあの事件、被害者はどうなったのか。今週の『週刊実話』(2014年1月30日号)には、「事件ワイド大特集 あの凶悪犯罪の今!」というタイトルで、近年起こった6つの大きな事件について、犯人の戦慄のエピソードや現在の事件現場や関係者の様子などをまとめています。
秋田(2006年)、大阪(2000年)、広島(2013年)、福岡(2004年)、尼崎(2013年)、北九州(2002年)の各事件についてです。
秋田以外の事件については同誌でご確認ください。
各記事とも実際に取材を行っていて、新しい話もあるようですが、いずれも被害者側の話は出てきません。
今回は加害者側の話に限定したと編集部は主張するかもしれませんが、事件の話でありながら被害者側の話も入らなければ、どんなに真面目な記事でも、やはり物足りなさを感じます。
被害者にとっては、凄惨な事件で語りたくない、という気持ちとともに、マスコミに対する不信感があるのかもしれません。
たとえば、この特集でもっともスペースを割いているのは秋田の事件です。
具体的に何の事件かは、「秋田の事件」で検索すればすぐに出てきます。女性が自分の子と近所の子を殺害した事件です。
当時、あれだけ事件を大きく報じたワイドショーや週刊誌等ですが、実は飲食店など周辺取材しかできていなかったそうです。
なぜなら、犯人は自分にとって都合の良いマスコミだけを選んで対応していたし、お子さんを殺害された被害者の父親は、事件について、公判当時からマスコミの取材を受け付けていなかったからです。
犯人は、咄嗟に橋から落としたことになっています。発見された場所とは異なり、その場所まで流れることは考えにくかったのですが、その「矛盾」をさらに調べなければ事件の真相には迫れません。
しかし、マスコミは、最初に犯人と取材方法をめぐってイザコザを起こした“初動の誤り”もあって犯人に主導権をとられ、取材“させてもらった”キー局ワイドショーなどは、犯人の「事故ではなく自分は被害者だ」という言い分を垂れ流していたのです。
一方、ゴシップ誌は、犯人の女としての“ふしだらさ”をセンセーショナルに報じることは熱心でしたが、事件を解明する姿勢については、少なくとも被害者の心情に寄り添うほど誠実ではありませんでした。
結局「矛盾」は解明されず、犯人の供述が疑わしいまま、判決は無期懲役で確定しました。
事件の悲しみとともに、マスコミが当初からそれを疑うこともなくタレ流したことに対する被害者の父親の根深い不信感が、マスコミの取材に応じない、という態度をとらせたのです。
もちろん、マスコミは、事件について、なぜ犯人がそのような行為に至ったのかを、善悪の論評を差し置いて冷徹に見きわめる仕事なので、必ずしも被害者の心情だけを代弁するわけにいかないのは確かです。
商業誌として、センセーショナリズムに走るのはわかるし、そのほうが面白おかしくて楽でもあります。
が、それだけでなく、事件の真実を追いかける執念深さと精緻さも持ち合わせていなければなりません。
最初からセンセーショナリズムや覗き見趣味ありきでアプローチすることは、事件のシロクロについての判断自体を間違えることにもつながりかねません。被害者の気持ちを逆なでするのはモラルの問題だけでなく、今回のように自らの取材活動がしにくくなることもあります。
事件を記事にするというのは大変難しいことなのです。
でも、それがきちんとできる人は、作家であれ、ジャーナリストであれ、いい仕事ができると思います。
あなたはそれでも書き屋になれますか?
おそらく、ブログを開設された方の中には、心のどこかに、プロの物書きになりたい、という夢があるのかもしれません。
なければ、わざわざ人目につくところに自分の文章を発表などしないでしょうからね。
作家であれジャーナリストであれ、ひっきょう、書き屋の真骨頂は、文章がうまいかどうかではないと私は思います。
今回のような凶悪事件はもっとも極端なものですが、そこまでいかなくても、ヒトは人生の中で、幾度となく他者との間に様々な齟齬や確執、裏切りなどトラブルを繰り返して生きています。
たとえば不倫なんていうのもそのひとつなわけですが、それについて「けしからん」と紋切り型の感想しかいえないのは、一般の社会人としてはいいのですが、書き屋としては失格です。
そんな、モラルや規範に照らした善悪の判断は世間や警察に任せておいて、書き屋はひたすら、それを行ってしまった心情や、された者の苦しみをきちんと直視し、文字の世界に描ききる冷徹で強靭な精神が必要なのです。
それが、人間の真実に肉薄し、新たな文化や価値観を創出する突破口になるのです。
今回の記事で、そんなことを考えさせられました。
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