テレビドラマ。過去に観た作品でもっとも印象深いものは何ですか。
最初に国産のテレビドラマが放送されたのは、1958年放送の『私は貝になりたい』(TBS)といわれています。以来、今年で55年。『女性自身』も創刊55周年ということから、同誌の今週号(12月17日号)は「テレビ55年史、いつもドラマに夢中だった!」という特集記事を組んでいます。
「テレビドラマはまさに時代を映す鏡。流行ったドラマを見れば、どんな世相だったかひと目でわかります」
というわぐりたかし氏(放送作家)の談話で始まる同誌の特集記事は、58年から現在までを4つの年代に分け、それぞれの時代の視聴率ベスト10ドラマを紹介しながら、ドラマの傾向について解説しています。
1.1950年代~黎明期からホームドラマ全盛期へ
2.70年代後半~学園ドラマと社会派ドラマ時代
3.80年代後半~99年 トレンディドラマ全盛から情念系ドラマへ
4.00年以降の暗黒時代を乗り越え、震災後、ドラマ復活
私の意見ですが、1や2と3および4は、TV局の売り方(ビジネスモデル)がかわってしまったので、同じ「ドラマ」であっても、質が違っているのではないかと思います。
よく「テレビがつまらなくなった」といわれますが、それはテレビコンテンツが、DVDや映画などのフロントエンド商品になっていることが大きいのではないかと以前書きました。
地上波テレビの視聴率凋落、どう見る?
1や2の頃は、映画会社がまだ元気で、優秀な俳優やスタッフが次々テレビにやってきて、また新劇も有望な人材を供給していたので、ドラマも作りがいがあったと思います。
それに、1や2の頃は放送期間が半年や1年が当たり前だったので、ドラマに“ダレ場”を作る余裕があったため、ストーリーに緩急をこしらえることができました。
ところが、今はドラマといえば10回、ないしは11回。あっという間に終わってしまうストーリーにいろいろつめ込まなければならない。
ヤマ場やサプライズのインフレ状態にならざるを得ません。
視聴者は次第にサプライズに慣れてしまいますから、作り手はストーリーをどんどんエスカレートさせなければならず、結局は「荒唐無稽」の方向に行くか、「物足りない」まま終わるかになってしまうんですね。
まあ、脚本を下手くそな若い人が担当していることも原因かもしれませんが、いずれにしても、制作現場の人は大変だろうなあって思います。
私が、ドラマのいい時代に観ていたのは、やはりホームドラマですね。
1960年代ドラマ視聴率ランキング
番組の順位 | 放送局 | 番組名 | 視聴率 | 放送日 |
1 | TBS | 図々しい奴 | 45.1% | 1963.8.5 |
2 | TBS | てなもんや三度笠 | 43.9% | 1966.2.27 |
3 | NET | 氷点 | 42.7% | 1966.4.17 |
4 | TBS | 月曜日の男 | 40.9% | 1963.8.12 |
5 | TBS | ザ・ガードマン | 40.5% | 1967.9.22 |
6 | TBS | 七人の刑事 | 38.5% | 1963.8.29 |
6 | フジテレビ | 愛染かつら | 38.5% | 1965.8.20 |
8 | TBS | 隠密剣士 | 38.4% | 1964.1.26 |
8 | TBS | ただいま11人 | 38.4% | 1965.6.10 |
10 | フジテレビ | 月よりの使者 | 37.8% | 1966.9.2 |
1970年代ドラマ視聴率ランキング
番組の順位 | 放送局 | 番組名 | 視聴率 | 放送日 |
1 | TBS | ありがとう | 56.3% | 1972.12.21 |
2 | TBS | ゆびきり | 49.8% | 1973.1.25 |
3 | TBS | 水戸黄門・最終回 | 43.7% | 1979.2.5 |
4 | TBS | 日曜劇場・女たちの忠臣蔵 | 42.6% | 1979.12.9 |
5 | NTV | 熱中時代・最終回 | 40.0% | 1979.3.30 |
5 | NTV | 太陽にほえろ! | 40.0% | 1979.7.20 |
7 | TBS | ザ・ガードマン | 39.9% | 1970.9.18 |
8 | TBS | サインはV | 39.3% | 1970.5.24 |
9 | TBS | 3時間ドラマ・熱い嵐 | 38.0% | 1979.2.26 |
10 | TBS | 赤い激流・最終回 | 37.2% | 1977.11.25 |
同誌では、50年にわたってホームドラマを作り続けてきた石井ふく子さんが、『肝っ玉かあさん』(1968年~1972年)『ありがとう』(1970年~1975年)『渡る世間は鬼ばかり』(1990年~2011年)などを振り返ってコメントしています。
「じつはそのころスターのスケジュールを押さえるのはたいへんな作業。いっそのこと、全員、脇役の俳優でドラマを作りたいと脚本家の平岩弓枝さんに相談して書いてもらったんです。主役は新派の脇役として演技力を磨いてきた京塚さんに決め、頼みに行ったら、『ええ、う、うそ!』と言われたのが忘れられません」
「京塚さんもチータも泉ピン子さんもみんないわゆる美人じゃない。ホームドラマのヒロインは普通だけど個性があって、どことなく温かい、そんな女優さんがいちばん似合うんですよ」
「人を殺して恐怖を見せるのは簡単。家族を描いて、視聴者にどういうサスペンスを与えるか、それがホームドラマの神髄だと思っています」
最後のコメントがいいですね。
泉ピン子が「どことなく温かい」かどうかは意見がわかれるところですが、石井ふく子さんが、一貫してホームドラマにこだわり続けたことについては、私は視聴者として敬意を表したいと思っています。
ホームドラマにも危機はあった
実は、ホームドラマも80年代前半、2時間ドラマブームと歌番組全盛のあおりで、いったんは枠を失った時期もありました。
その時、石井ふく子&橋田壽賀子のコンビは、『ああ家族』(1987年1月5日 - 2月27日)というドラマを昼メロの時間帯で放送。
『おしん』でも名が知られる大物作家が昼メロ枠で書くというのは、異例のことでした。
石井ふく子さんの「もう一度ホームドラマの枠を取り戻す」という意気込みが伝わった起用です。
その番組がプロトタイプとなって、再びホームドラマはゴールデンに復活。『渡る世間は鬼ばかり』につながりました。
私は、一視聴者としては『渡る世間は鬼ばかり』に関心はありませんでしたが、
エキストラ、いわゆる“仕出し”の醍醐味とは?
「プロトタイプ」の第1回に、縁あって鑑識の役で出られたのは老後の一つ話にできるいい思い出です。
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