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原発国会事故調査委員会報告、自分にどう「報告」する? [政治]

東京電力福島第1原発事故の、国会事故調査委員会報告が話題になっている。昨日、「事故の根源的要因は『人災』で、政府、規制当局、東京電力は人々の命と社会を守るという責任感が欠如していた」とする報告書を公表したからだ。

「これまで何度も対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局と東電経営陣が先送りしてきた」上で、今回は「(首相官邸が)重要な時間を無駄にしただけでなく、指揮命令系統の混乱を拡大した」と批判。「事故の進展を止められず、被害を最小化できなかった最大の要因」と断じている。

「首相官邸」だから、菅直人総理はもちろん、枝野官房長官その他の要人にも応分の責任があるということだ。ここが重要なところだ。

そして、東京電力とともに、政権交代前の自由民主党政府の責任も指摘している。これも当然だろう。

ヤフーニュースがこの報告書を報じると、すぐさま、「国民は事故の直後からみんなそう思っていた」「そんな報告、今更という気がする。当たり前のことだ」というコメントが多数書き込まれた。

たしかにそうだ。ネットでも、直後からそうした指摘があったことは事実である。

しかし、だ。それは決して「国民みんな」ではなかっただろう。

一方では、「事故は地震による不可抗力。政府や東電は一生懸命やっているのだから批判するな」などという、泥棒に追銭のような生暖かい意見が多くの国民から出ていたのも事実だろう。

菅総理については、けだし国民は当時からおおむね批判的だった。しかし、枝野官房長官については、「よくやっている」などという評価もあったではないか。当時のブログやウエブ掲示板を見ればはっきりするはずだ。

枝野官房長官については、不眠不休を賞賛する声もあったが、テレビに出ている姿だけで評価するのは一面的だということだ。今回の調査で、菅総理に全面的に責任を押しつけるかのような答弁がテレビで報じられ、ミソをつけてしまった。

そう、今回の報告書の評価はいろいろあるが、「今更」などとさげすむものではなく、結論として「やるべき」調査であることは間違いなかったのである。

政府や東電だけでなく、国民の間でも的確な評価ができず、うろたえていたことが改めてわかったからだ。

今年の3月11日。震災1年目に、リメンバー調のニュースやブログ記事が更新された。曰く、「我々はあの日を忘れてはならない……」

忘れるはずがない。

未だに被災地は「過去のこと」とはいえない状態なのだから。

意地悪な私は、その手のスローガンが気にくわない。ことさらそう叫ぶのは、そう叫ぶこと自体に満足しているのではないかと勘ぐってしまう。

忘れるなと言うのなら、当時、買い占めで物流をめちゃくちゃにして、被災地に必要なものを届けられなかった愚かな行為を自己批判すべきではないのか。

自由民主党、首相官邸、東電、その責任は一切の妥協もなく幻想も捨てて大いに追及すべきである。

ただ、私たちは「心の中の報告書」として、最後の一行でいいから、「自分はどうすべきだったか」「自分は何か間違っていなかったか」という自己批判も加えるべきではないだろうか。

もちろん、為政者と国民の責任を同列に考えるような「一億総懺悔論」を唱える気は全くない。

しかし、何かあるといつも誰かのせいにして、自分で考えない、自分を省みない、そんな生き方、考え方では、今の閉塞した社会を前に進めることはできないと思うのだ。




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