『「幸福の計算式 結婚初年度の「幸福」の値段は2500万円!?』(阪急コミュニケーションズ)という書籍が話題になっています。幸福という心の問題を金銭化したことが新基軸なのでしょう。しかし、本当に金銭化できるのかという点で素朴な疑問があります。
『「幸福の計算式 結婚初年度の「幸福」の値段は2500万円!?』は、タイトル通り、人間の幸福度を社会学者の唱える根拠で定量化(価格化)しているものです。
そもそも、人間の幸福感は個々の価値観や、医学などでいうところの交絡因子によって変わってくるものなので、ある事象、事実を固定的に見て客観的な数字で示すというのはトンデモだと筆者は思っています。
なぜ数字にする必要があるのか
『「幸福の計算式 結婚初年度の「幸福」の値段は2500万円!?』を読んで思ったこと。
なぜわざわざ数字にこだわるのでしょうか。
そんなものは物理学者や数学者に任せておけばいいでしょう。
なんで社会学者が数字の結論にこだわるのか。
文系学者の理系学者に対するコンプレックスとさえ勘ぐってしまいます。
たとえば、○○大学に合格したという客観的な事実について考えてみましょう。
第一志望なら幸福でしょうが、滑り止めならそれほど幸福でないかもしれません。
一浪して合格できた人は、「これがストレートでの合格だったら」などと思うかもしれません。
小学校や中学の成績が優秀だった人は、「高校もその調子で行けば、もっと難易度の高い大学に入れたのに」と思うかもしれません。
「○○大学の合格」者には、様々な価値観や事情があります。
そして、それぞれに思いは違います。
そこに数字、しかも「お金」という、これまた価値判断の分かれるものを持ち出してどうするのでしょう。
子を持つ喜びは、31万円?
もっとも気になったのは、『「幸福の計算式 結婚初年度の「幸福」の値段は2500万円!?』には、「子を持つ喜びは、31万円分の価値しかない」という見解が書かれています。
根拠は、睡眠や友人との付き合いなどの「幸福」が犠牲になるから、それを差し引くと「31万円分」だというのです。
そりゃ、あんまりだろうと思いました。
たとえば、子どものいない人の中には、子どもがいる人がそうした「犠牲」を経験することをうらやましいと思うのではなでしょうか。
つまり、その人にとって「犠牲」=「幸福」なのです。
もちろん、「犠牲」と考えるから子どもは作らない、という価値観の人もいるでしょう。
要するに、人それぞれ、さまざまなのです。
「犠牲」を喜びと感じる価値観は、定量計算することはできません。
だから数字化に意味があるのか、ということです。
『「幸福の計算式 結婚初年度の「幸福」の値段は2500万円!?』のキャッチフレーズは、
「「幸せ」に値段をつければ、新しい世界が見えてくる!」だそうですが、
値段をつけなければ幸せを感じられない「合理主義」「拝金主義」こそが不幸の原因ではないでしょうか。
そもそも、「子を持つ喜び」に低い値段をつけておいて、そこに幸せを感じろというのは、おかしいでしょう。
ちなみに、筆者も以前、「人間の不幸の確率」を計算する企画出版を考えたことがあります。
家をでて交通事故にあう確率、散歩して、アスベストや排気ガスの空気を吸い、トリハロメタンの水を飲み、
放射線いっぱいの日光を浴びる確率……
そうした「わずかなリスク」の数々をクリアした上に、私たち日本人は80年余の平均寿命がある、という構成です。
ですが、その企画を今は進めようと思いません。
なぜなら、筆者は火災を経験し、あっという間に妻子3人を病院送りにされました。
しかも、妻は心肺停止だったのに何の後遺症もなく社会復帰しました。
筆者の経験した出来事の確率、いったい何万分の一だと思いますか?
でもどんなに少ない確率でも、経験してしまった人にとっては「100%」なのです。
確率だの「値段を計算」だのという試みは、当事者にとって、全く空しい、というより神経を逆なでするもの
ということがわかったのです。
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幸福の計算式のまとめ
予防・防災などに役立てるめやすとして、客観的事実の確率を調べることは否定しません。。
が、啓蒙書として、出来事に対する思いを数字でもてあそぶようなことは、真に知的な読み物とは思えないのですが、どうでしょうか。
2012-03-08 02:39
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共通テーマ:学問
お久しぶりです。
子供の値段が31万ですか。
書いた人の頭の中見てみたいものです。
by 楽しく生きよう (2012-03-08 14:39)