SSブログ

ジャイアント馬場を思い出した [スポーツ]

戦後史上、プロスポーツ史のヒーローといえば力道山がまず挙げられるが、力道山は1973年、暴漢に刺されて自称38歳で人生を終えた。

その後、プロレスは豊登道春が短期間つなぎエースを務めた後、アメリカで悪役としてアメリカの主要マーケットのすべてでメインエベンターをつとめ馬場正平ことジャイアント馬場がエースをつとめた。

相撲崩れの力道山や豊登が、外国人レスラーから、いかにも花を持たせてもらうとプロレスと違い、外国人レスラー以上に高長身の馬場が、類まれなる身体能力で説得力ある大技を繰り出す「明るく楽しく激しいプロレス」は、高度経済成長の日本を象徴する陽気で力強いプロレスだった。

そのジャイアント馬場が亡くなったのが、1999年1月31日である。

30代以下の人たちは、晩年の馬場しか知らないので、上記の描写を信じられないのではないか。
事実、馬場は糖尿病や稽古不足で全盛時は短かったといわれる。

東京スポーツで取材を続けていた櫻井康雄は、馬場の全盛時は1965年ぐらいまでではないか、という。

つまり、BI砲といわれた、ジャイアント馬場・アントニオ猪木のコンビの頃は、すでに馬場は下り坂になっていたわけだ。

スポンサードリンク↓

古いプロレスファンの間では、今だに馬場と猪木はたたかったらどちらが強いか、という話をしだすと結論が出ないが、そもそも全盛期が違うのだから、比較するのはジャイアント馬場に対してアンフェアであろう。

ちなみに、筆者は子供の頃、梶原一騎先生の「ジャイアント台風」の影響を強く受けた世代なので、馬場が野球の頃に肘を切り、バーベルを持ち上げたりブリッジしたりが苦手だったという猪木の話が受け入れにくかった。

バーベルを手足につけられたままトイレの戸を閉められて蜂の巣を入れられ、そこから抜け出す特訓や、マンホールのふたを開けて力道山を乗せてブリッジをするという漫画の話を、子供の頃の筆者は本気にしていたものだ(笑)

ジャイアント台風―ジャイアント馬場物語 (1) (講談社漫画文庫)

ジャイアント台風―ジャイアント馬場物語 (1) (講談社漫画文庫)

  • 作者: 高森 朝雄
  • 出版社/メーカー: コミックス
  • 発売日: 2002/05
  • メディア: 文庫


nice!(32)  コメント(5)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 32

コメント 5

ナツパパ

あ、豊登、けっこう好きでした。
腕をあわせて、ぱかぱか音を出す仕草、子どもの頃真似ましたっけ。
by ナツパパ (2012-02-01 13:09) 

幸せ家族

私がプロレスを見たときはジャンボ鶴田やザファンクスが活躍したいました。
馬場さんの全盛期をリアルタイムで見たかったです。
by 幸せ家族 (2012-02-01 17:48) 

vega

あの華やかだった時代のプロレスが、また見たいものです…。
by vega (2012-02-01 18:23) 

アビッチ3号

馬場さんの32文ロケット砲に椰子のみ割り。エリックのアイアンクローで悶絶してた頃ドキドキさせられました(^-^)v
by アビッチ3号 (2012-02-02 06:03) 

銀狼

今の若い方々には、
もう馬場さんがどんな方だったかもご存知ないのでしょうね。。。
色々と揶揄される事が多かったですが、
本当に偉大なレスラーでした。
by 銀狼 (2012-02-03 15:33) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

Copyright © 戦後史の激動 All Rights Reserved.
当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます