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覚せい剤逮捕は再々犯もめずらしくない [社会]

芸能界の戦後史上、様々なスキャンダルがあるが、ドラッグによる逮捕、および再逮捕というのは看過できない事件である。覚せい剤や大麻の事件はこんにちも後を絶たない。

横浜銀蝿でボーカルをつとめていた翔が、覚せい剤取締法違反で2度目に逮捕されたときの東京地裁で開かれた公判が今から13年前の98年11月24日のことだった。

最初の逮捕は1997年2月。これが不起訴処分だったことでナメたのか、翔のは98年9月にも同法違反容疑(使用)で逮捕された。98年11月24日の公判はその初公判だった。

公判で翔は口ヒゲをたくわえ、胸を張って被告席に着席。自身の職業については「会社役員です」などと名乗った。

このときは、「反省の様子が認められない」(高木順子裁判官)と懲役1年、4ヶ月の実刑判決。そのとき傍聴していた、銀蠅のリーダーで実兄の嵐ヨシユキは、

「実刑はおかしい。ヤツを守るのはオレしかねえべ。出てきたら“ごめんなさいツアー”をやる」(『夕刊フジ』1999年2月27日付)などと興奮していた。

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嵐ヨシユキの言い分は、「初犯なのに実刑はおかしい」「歌屋は歌で償う」という意味なのだろう。

翔の兄として、またはグループの仲間としてその言動はわからなくもないが、理屈としては、それこそ「おかしい」。

なぜなら、横浜銀蝿の翔の場合、そもそも「初めて」の誤りではない。不起訴だったが97年の2月に1度は逮捕されているのだ。

正確に言えば、「不起訴」と「無罪」とは意味が違う。「不起訴」は「刑事裁判にはしませんよ」というだけの意味であり、やったことを無罪と認められたわけではない。

つまり、翔は初めての公判でも、覚せい剤による逮捕が2度目であることにかわりはないのである。

不起訴だったのをいいことに、同じ間違いをくり返すから、常習者と認定されて実刑になったのではないのか。

こうやって実兄が庇ったからか、横浜銀蝿の翔は覚せい剤と縁を切ることができになかった。2003年4月24日に「3回目」をやらかしてしまった。

東京・渋谷区笹塚の甲州街道に止めた車のダッシュボードの中に、袋に入れた覚醒剤約2グラムを隠し持っていたところを現行犯で捕まったのだ。

さすがに、このときばかりは横浜銀蝿の嵐ヨシユキもかばうことはできず、「あきれ返ってものが言えない。40歳を過ぎた親父が何をやってるんだと」と怒り心頭にコメントし、自らは頭を丸めた。

7月6日の判決で峯俊之裁判官は、「社会復帰後は覚せい剤との関係を絶ち、人生をやり直して欲しい」と言い渡した。これで引導を渡された翔は芸能界廃業を決意している。

覚せい剤は、1回ハマったら抜け出すのは容易ではないといわれる。戦後史上、清水健太郎や田代まさしなど、再犯、再再犯は決して珍しいことではない。

やめられないのは意志が弱いからだ、とばかりもいえない。
やめたいという意志自体をだめにしてしまうのが、覚せい剤の怖いところなのだ。

判決が常習犯に厳しいのは、それによる抑止力に期待せざるを得ないからである。

それだけに、常習者に対しては、突き放すだけではいけないし、かといって甘やかしたり同情したりかばい立てたりしてもいけない。実際の生活に踏み込んできめ細かい対策をたて、立ち直りにはねばり強く協力していかねばならないのだ。

最近も、「ノリピーは復帰できるか」などという記事が出ることがあるが、復帰以前に行うべきケアが必要である。そこを報じるメディアがないから、覚せい剤事件が一過性のものになってしまうのだ。

横浜銀蝿でボーカルをつとめていた翔が起こした事件の経過は、『平成の芸能裁判大全』(鹿砦社)にかなり詳しい。芸能裁判の戦後史が一目でわかる。


平成の芸能裁判大全

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  • 作者: 芸能裁判研究班
  • 出版社/メーカー: 鹿砦社
  • 発売日: 2003/10
  • メディア: 単行本


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