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中曽根康弘首相の日米首脳会談

日米首脳会談 1983,1,17

韓国から帰国した中曽根康弘首相は、続いて14日の閣議で「軍事技術の対米供与は武器禁輸3原則の枠外」と「無条件供与」を決定。アメリカが求めていた防衛費の増加と対米武器技術供与の問題を解決して、それを手みやげに訪米をしたのである。

ロナルド・レーガン大統領との日米首脳会談では、
1.日米は運命共同体
2.日本列島を不沈空母にして、ソ連のバックファイアの侵入阻止の防壁にする
3.日本列島付近の4海峡を支配してソ連の原潜を通過させない
4.海上交通路(シーレーン)を確保する、

などを表明。その軍事優先のタカ派的な対米協調発言に、国内は騒然となった。

たしかにタカ派といえばタカ派かもしれないが、今考えれば、安保条約の下に属国化しているわが国のアメリカに対する忠誠ぶりと、ソ連に対する日米同盟をたてにしたけん制という立場を正直に語っただけなのである。

だが、当時はインターネットもなく、国民が情報と議論で真相に迫れる機会もなく、また中曽根康弘首相は政治家としては率直な物言いをし、手っ取り早く成果や手続につなげたいタイプだったので、率直すぎて、当時としては今以上にインパクトがあるように感じられたたのだろう。

前回も書いたが、これによってロナルド・レーガン大統領との間に「ロン・ヤス」と呼び合う個人的な親密関係もできた。

また、戦後史上、重要なことだが、中曽根康弘首相は、日本の国民総生産(GNP)の1%以内とされていた三木武夫内閣以来の方針を放棄し、防衛費も1%を突破させた。
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