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野党の連合政権構想

野党の連合政権構想 1975,10,14

自由民主党が国民の信頼を失っていく中で、野党の連合による政権交代が実現の可能性を帯びてきた頃、各野党が独自の「政権構想」を発表していた。

戦後史上、いろいろな政党の離合集散があったが、自由民主党を倒すための政権交代の機運が高まった最初の時期である。

当時は「五大政党」で、日本社会党、公明党、日本共産党、民社党が野党として存在していた。

その中で、まっさきに綱領という形で「野党政権」を発表したのは日本共産党だった。おりからの上げ潮ムードで、同党は「民主連合政府綱領」を73年10月10日付「赤旗」で発表。各党の理念の違いは留保しながら、

1.日米軍事同盟の解消と平和・中立化
2.大資本から国民本意への経済政策の転換
3.軍国主義の復活阻止と民主主義の確立実現、

の3目標を実現するというものである。

「社会主義建設をおこなう社会主義政権ではない」(『民主連合政府綱領日本共産党の提案』)政権構想なので、自由民主党政治に意義を唱える野党であれば同意できる、最大公約数的革新性を盛り込んだとした。

日本社会党は、74年の1月に党大会で「国民連合政府綱領案」構想を運動方針案の一部として打ちだした。

それは、全ての野党が出揃っての連合政権を目指すものだった。しかし、お題目として「連合」を唱えても、現実には民社党が頑強な反共主義に固執しており、現実味の薄いものだった。

この提案には「野党第一党だから一応提案しておく」というアリバイ的なものであると見る向きは多く、同党がそもそも統一戦線に対して現実的な取り組みを行う気が希薄であると受けとめざるを得なかった。

これは、反共、好調な日本共産党への嫉妬、日本社会党内のイデオロギー不統一、そもそも理論構築があまり得意でない同党の弱点など、さまざまな原因を分析することができる。

一方、公明党は73年の9月に党大会で「中道革新連合政権構想の提言」を発表。部分部分の政策では上記の2つに一致するものもあったが、中道、あるいは絶対平和主義に同調する勢力の大同団結を説いている点で反共、つまり日本共産党とは組まない、ということを示唆していた。

さらに75年の10月14日には「中道国民戦線」を発表。「保守・革新という色分けだけで政策が決定されていくのではなく、オーソドックスな政策が必要」としたが、これは反自民の旗をおろしたものと解釈する者も少なくなかった。

民社党は同じく73年の12月に「革新連合国民政権の提案」を発表したが、「革新」と銘打ちながら自民党の政治を変えるものにはなり得ず、何よりも特定政党(日本共産党)の排除が明白であることから、上記の3案に比べて「野党連合」としての体裁自体を疑問視された。

こうして出揃った構想だったが、どの構想も結局は実現しなかった。
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