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オイルショック

長沼ナイキ基地訴訟 1973,9,7

自衛隊がナイキ基地を建設するのに対し、保安林の解除や安全の面から農民が反対運動を起こした訴訟が、長沼ナイキ訴訟といわれるものである。もちろん争われるのは自衛隊の合憲性だった。従来の判決では安保・自衛隊に対して歯切れの悪いものばかりだったが、この時だけは明快に「自衛隊違憲」の判決がくだされた。

68年以来20回にも及ぶ審理に、学者や評論家も出廷したほど大がかりな訴訟だったが、この判決は当然革新陣営を激励し司法の点からも自由民主党は苦境に立った。

いずれにしても、法律や裁判自体はもちろん中立であるが、それをどう適用するかというのは、その時々の社会情勢で変わりうる、ということを示唆した裁判といえた。

オイルショック 1973,10,23  

国際石油各社は、日本の石油業界に対して、原油価格の引き上げと供給量の制限を次々行ってきた。その背景にあるものは、10月6日から始まった第4次中東戦争だった。原油価格は、翌年1月には3.5倍にまで上がっていた。しかし、石油関連企業は、これを逆に利益に転嫁(売り惜しみ)しようと考え、政府も「列島改造計画」にしがみつき、金融をゆるめる(内需を増やす)等の施策をとっていた。

そのため、国内は猛烈なインフレが進んだ。土地も卸売り物価も生鮮食糧品も、30%を超える上昇を記録し、狂乱物価と言われた。日々の暮らしでは「物不足」が喧伝され、トイレットペーパー、洗剤、砂糖等が「足りない」として、それらを求める主婦の長蛇の列が連日スーパーや雑貨屋にできた。

「経済大国」でも「資源小国」であると、日本経済に悲観的な見方をする識者も増えてきた。また、労働界ではこの「ショック」を口実に、一層の労働強化が行われていった。
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コメント 2

レン

「狂乱物価」と呼ばれていました・・・

インフレーション抑制のために【総需要抑制策】がとられ
1974年には、戦後初めて日本はマイナス成長に・・・。
by レン (2010-10-20 12:48) 

ふたば

ご訪問&nice!有り難うございました☆
by ふたば (2010-10-20 22:48) 

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