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革新自治体ブーム

第33回衆議院総選挙 1972,12,10

第33回衆議院総選挙は、田中角栄内閣の初めての審判となる選挙だった。

投票の結果は、自由民主党が271、日本社会党が118、日本共産党が38、公明党が29、民社党が19、諸派・無所属が16だった。

日本共産党はこの選挙で得票数を500万台にのせ、野党第2党になった。自由民主党は17議席減らし、早くも「角栄ブーム」にかげりが見え始めていた。「中道」の公明・民社にも厳しい結果になった。

開票日には経団連の正副会長会議があった(経団連会館)が、日本共産党躍進の選挙結果に、あわてふためき会議が流会になるというハプニングもあった。

日本社会党の回復が思ったほどでもなかったところから、政局は「自共対決」といわれるようになった。そのため、日本社会党は社共共闘の国政レベルへの持ち込みには消極的となり、一方では社公民路線が言われたり、自民党は小選挙区制を言い出したりなど、党利党略から様々な問題で揺さぶりをかけてくることになる。

名古屋市長選 1972,4,22

この頃は革新自治体ブームと言われるが、この日行われた名古屋市長選においても、社共推薦、公明支持の本山政雄が保守系候補を破り勝利した。

これにより、東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸と、太平洋ベルト地帯がすべて革新系とされる市長になった。自由民主党にとってこれはショッキングな出来事だった。

ただ、このことから一気に「革新の時代」と受け止めることは楽観主義だった。

日本共産党が大衆活動の高揚とともに議会政党として基盤を整えてきたのは事実だが、それだけで自由民主党を倒して自治体の首長を獲得することはできない。「革新自治体ブーム」は、現状の政治に対する有権者の不満が高じた中で、機を見るに敏な中間政党が反自民のスタンスを取ったことにより、「投票し甲斐のある反自民勢力」が構築できたために一定の成果を見たという面は否定しきれないだろう。

この事態を「数」の面から教訓とした自由民主党は、以降に見るように小選挙区制という制度で自分たちを守ろうとしながら、一方、地方選や国会など議会や選挙では中間政党を取り込むという両にらみの戦略をとり、巻き返しに出ている。
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