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コミンフォルム解散 [戦後史]

1956.4 コミンフォルム解散

各国共産党の内部問題に干渉してきたコミンフォルムが解散された。

そこでは「民族的特殊性と条件に応じて自己の活動を展開する」各国共産党の必要性が訴えられたが、現状の社会主義国はソ連スターリンの影響を受けていた。

それに対して民衆の不満は高まっていた。10月23日にはハンガリー事件(共産党員に対する白色テロ)も起こった。それを口実にソ連は、ハンガリー・ユーゴスラビアの共産党がソ連型社会主義への移行を軍事的に強行した。

我が国では、日本共産党が「六全協」で不十分ながらも自己批判があり、合法的な革命を目指すことになったが、それも誤りと指摘されていた。

この干渉のため党内は内部分裂し、結局党勢は衰えた。スターリンの死後、スターリン批判を受けて1956年に廃止された。

第二次世界大戦後のアメリカの世界戦略に対抗して、ヨシフ・スターリンとヨシップ・ブロズ・チトーが提唱し、1947年にヨーロッパ9か国(ソビエト連邦、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、フランス、イタリア)の共産党または労働者党で結成された。大戦前のコミンテルンの後身に相当するが、コミンテルンが労働者の統一戦線樹立を目指したのに対して、コミンフォルムでは各国共産党の情報交換が主な目的とされた。ソ連が東欧諸国とフランス・イタリア共産党への統制を強めるにつれて、独自路線を採ろうとするチトーとの対立が深まり、ユーゴスラビアは1948年6月、除名処分を受けた。これにともなって、コミンフォルムの拠点はユーゴスラヴィアのベオグラードから、ルーマニアのブカレストへと移された。 1950年、占領軍を解放軍と規定し、合法的な革命を目指す日本共産党の路線を誤りと指摘した。この干渉のため党内は内部分裂し、結局党勢は衰えた。スターリンの死後、スターリン批判を受けて1956年に廃止された。(wikiより)

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