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社会党の再統一 [戦後史]

政治報道では、55年体制という言葉がしばしば出てくるが、それは1955年に、保守政党、左右社会党の2大勢力ができ、そこである種の政治の「安定」や予定調和などが発生したことをさしている。

◆1955/1/18 社会党事実上の再統一

総選挙を前に第13回臨時党大会を開催した両派社会党は、
  1. MSA再軍備反対
  2. 平和憲法擁護の階級的大衆政党を目指す
  3. 日本共産党とは一線を画す

という3つの方針から社会主義の実現を期することを採択した。

また、両派に統一準備委員会を設けることも併せて採択された。ここから、党綱領や「非武装・中立」の理念も生まれ、社会民主党に看板替えするまでの日本社会党の原点ができたといっていい。

だが、内容的には相変わらず「階級的大衆政党」と、政党の根本的立場を曖昧にし、左右両派にとって分裂前の玉虫色の建て前から一歩も前進していなかった。

また、反共を打ち出していた点は、革新勢力の結集=統一戦線を実現する見通しや説得力に欠けていた。

これは社会民主主義の結集政党という寄り合い所帯としての宿命的な限界ともいえる。従ってその矛盾と混迷は社民党となった今日まで続いている。

◆1955/2/04 日ソ正式交渉開始

日ソ・日中国交回復については、54年10月に野坂参三、石橋湛山ら超党派の国交回復国民会議が作られており、その時から動きも急速に高まっていた。

1月25日には鳩山邸で、鳩山一郎・ドムニツキー(元ソ連代表部臨時首席)会談が行われ、交渉が正式にスタート。領土問題や反共勢力の反対で難航し、アメリカや財界の圧力も強かった。鳩山は財界に「在任中の最後の仕事」として56年10月7日、モスクワで日ソ共同宣言を締結。
  1. 領土問題は棚上げ
  2. 講和条約は結ばずに国交回復
  3. 歯舞・色丹は講和条約締結後に返還
  4. 抑留者は開放

などを宣言した。

◆1955/2/27 第27回総選挙

鳩山内閣初の総選挙は、日本民主党185、自由党112、左派社会党89、右派社会党67、労農党4、日本共産党2、諸派2、無所属6が当選した。

鳩山一郎は日ソ・日中の国交回復とともに憲法改正が悲願で「独立の完成のため自衛体制を確立させたい」「特別国会で超党派的な憲法調査会を作り」憲法改正を実現したい決意を、各地区の遊説でもにじませていた。

そのため、改憲をするのかどうかが大きな争点とも言えたが、左派社会党の進出でそれを防いだ。基地闘争や国民運動の数々が、国民を平和憲法を守る理念の高揚につながったのである。
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もーもー

nice
ありがとうございます
by もーもー (2010-08-10 08:51) 

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