日本武道館という、東京・九段下の近くにあるイベント施設があります。イベント施設というと、武道家の方々に叱られてしまうかもしれません。しかし、そのこけら落としとして開催されたのは、ファイティング原田(ボクシング)、ビートルズ公演、ジャイアント馬場(プロレス)の興行でした。それらが成功して、こんにちの武道館があります。
『日本プロレス事件史 vol.18 会場・戦場・血闘場』(ベースボールマガジン社)を読みました。
またまたプロレスです。
といっても、今回はプロレス興行に使った名物会場を思い出す話です。。
もちろん、東京都千代田区北の丸公園にある
日本武道館は、もともとプロレス用というわけではありません。
同誌によると、占領軍によって学校教育の修得科目で禁止されていた武道(柔道、剣道、弓道、なぎなた等)が、1950年代になってから徐々に解禁されました。
そして、1959年には武道の殿堂を作ろうということになり、約40億円の建設予算をかけて着工。
1964年の東京オリンピック開催にギリギリ間に合いました。
ではその後はどうするか。
もちろん、「武道の聖地」であるのはいいのですが、武道館建設費用の償却のためには、武道大会以外のイベントに貸して使用料収入を得なければなりません。
しかし、作ったばかりの武道館の賃貸料は大変な金額であり、かなりの観客動員が見込めるイベントが求められました。
武道館建設の最高責任者は、読売グループの総帥・正力松太郎。
正力は、読売グループにもメリットのある、日本武道館のイベントを企画しました。
ファイティング原田のボクシング
ます行われたのは、日本テレビが放送権利を持っていたプロボクシング・世界バンタム級チャンピオン、ファイティング原田の防衛戦でした(1965年11月30日、対アランエフドキン)。
観客は1万2000人、ほぼ満員です。
私は、ボクシングというと西城正三から後しかわからないのですが、1960年代のチャンピオンはファイティング原田でした。
ビートルズ
そして2番目は、正力松太郎が社主を務める読売新聞が主催者となった、1966年6月の「ザ・ビートルズ日本初公演」。
これも伝説のイベントとされているのですが、私は全くわかりません。
当時は、「長髪、ヒッピーまがい、不良のやる騒音のような音楽に、神聖なる武道館を貸し出してよいのか」という反対もあったそうです。
寺内タケシのエレキギターや、内田裕也のロックが不良という時代ですから…。
そして、「「ファイティング原田」と「ビートルズ」が登場したとあって、1966年夏以降、「武道館・第三の矢は、ジャイアント馬場しかいない」という状況が醸成されていった」(同誌より)といいます。
ジャイアント馬場
もっとも、プロレス興行で、それだけの大きな器は、力道山時代もありません。
興行に失敗すれば、その時の収支だけの問題ではなく、プロレスのイメージダウンにもなってしまいます。
そこで、日本プロレスが招聘したのが、「まだ見ぬ強豪」“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックでした。
頭蓋骨を握りつぶすように相手の顔面を締め付け(アイアンクロー)、エリックの指の間からは相手の顔面からの出血が……
戦慄のシーンは、「フレッド・ブラッシーの噛みつきによるショック死事件」をまた起こすのではないかと大変な話題になったようです。
その怖いガイジンを、インターナショナルチャンピオンになり、日本のエースとなったジャイアント馬場と戦わせるというプランです。
1966年12月3日に行われたその興行は、「エリック&武道館」のダブルインパクトが効果的で、前売り券開始と同時に切符は飛ぶような売れ行きとなったといいます。
もちろん満員です。
読売グループ(日本テレビ)は、こうして武道館イベントこけら落としに、「F・原田、ビートルズ、ジャイアント馬場」を3連続放送し、他の民放局との差を大いに見せつけたそうです。
とくにビートルズは反対が多かったものの、成功したことで今でも伝説化し、その後も多くの歌手が公演を開催することとなりました。
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プロレスファンの余談
ジャイアント馬場対フリッツ・フォン・エリックは、今でもYoutubeやニコニコ動画で観ることが出来ます。
とくにニコ動は、鑑賞者のコメントが入るので、どんな反応をしたのかがわかります。
当時は、エリックが怖いガイジンで、すごく心配しましたが、今観ると、ジャイアント馬場のウケのうまさがあってこそだったんだなあということがわかります。
たとえば、リング外にいるジャイアント馬場の顔面を、エリックがアイアンクローで掴んでリング内に引きずり込むというシーンがあるのですが、観客やテレビ視聴者はそれで度肝を抜かれるわけです。
でも、それは上手に引きずられたジャイアント馬場の“協力”があってことなんですね。
ちなみに、その興行が終わると、日外レスラーの面々は、12月12日、当時の人気テレビ番組『底ぬけ脱線ゲーム』(日本テレビ系)を収録。
パンシロンの看板(ロート製薬提供のため)の下、金原二郎アナウンサーの指示で、ジャイアント馬場らは視聴者にお笑いも提供していました。
こちらも懐かしいですね。
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