今日、いくつもツイートやFacebookの投稿が上がった話題の一つは、「手足の指6本の奇形で生まれた赤ちゃん、「人工呼吸器からはずして」と父親が…(読売新聞(ヨミドクター)」という寄稿です。タイトルだけ見ると、昭和の大映ドラマ的なセンセーショナリズムですが、内容は考えさせるものがあります。
まず、あらすじから。
「関東地方の田舎」で、多指症(指が6本ある)の奇形がある赤ん坊が生まれた。
医師は、こうした奇形は形成外科の先生に手術してもらえばきれいになり、「命には関係ありません」と説明した。
にも関わらず、父親は「人工呼吸器から外して」と“安楽死”させようとした。
医師が咎めたら、父親は、「
先生には分からないよ。田舎でこういう子を育てるのが、どんなに大変なことなのか」と悲しそうにうなだれて、廊下を去って行ったという話です。
まあ結論として、“安楽死”はさせなかったんですけどね。
そりゃそうだ。
命に別状ないんだし、そんなことしたら殺人ですから。
それはまず、はっきりさせておきましょう。
生まれた以上、殺人なんですよ。
まあこういうツイートもありますから、読み物としての脚色はあるのかもしれません。ただ、
「奇形や障がいをもって生まれてくるのなら、本人のためにも家族のためにも、生まれてこないほうが良かった」と、身勝手に考える親はいるかもしれず、そこにこそ、わたしたちが考えるべきテーマがあります。
率直なところ、あなたはいかがですか。
やっぱりそんなふうに考えちゃいますか。
何の権利があって、そう考えちゃいます?
この父親が言うように、「田舎」がどれほど閉鎖的であるか、東京人の私には全くわかりませんが、地方や人にもよると思います。
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なぜそんなふうに考えてしまうのだろう
冷静に考えると、おかしな話ですよね。
人の命ってそんなに軽いものなの?
障害があるというだけで、たまたま無いやつが、勝手に殺めてもいいものなの。
障害がないって、そんなに偉いことなの?
百歩譲ってそうだとして、別にそれってそいつの功績ではなく、たまたまでしょう?
私が思うに、ナニナニ家という家紋や過去帳を背負ってる(ようするにいわゆる本家か)「旧家」ということもあるんじゃないでしょうか。
私の考えですが、そんなに「大変」だったら、そんな「田舎」なんか、捨ててしまうという選択肢はないのでしょうか。
山形に住んでいた私の伯母夫婦は、子供を亡くした失意から、田畑屋敷を処分して東京に出てきて、仕事も家もないところから生活を再スタートさせましたが、天寿を全うするまで暮らしていました。
私自身は何度も書いてますが、火災で物質的なものは家族の命以外全て失いましたが、こうして今も生きて暮らしています。
人間、その気になればどこでも何をしてでも生きていけます!。
でも、「家」を背負っていると、それもできないし、外聞もあるということではないでしょうか。
ナニナニ家の外聞VS障がいや奇形の子どもの命
でもねえ、生きている人間の命より重い外聞なんか、あるわけないでしょう。
私はそもそも、障がいや奇形そのものに引け目を感じる必要はないと思います。
が、もし、子どもの障がい・奇形が個人的にどうしても許せないというのだったら、そういう遺伝子を作った先祖でもうらんで気を晴らしましょう。
でも、その子ども自身をうらんだり、詰め腹切らせ(安楽死)たり、家庭不和になったりする必要はありません。
位牌や過去帳や外聞なんかよりも、喜びや悲しみを共有できる今の家族を大切にする気持ちを失わないでほしいですね。
位牌や過去帳や外聞が、私たちを幸福にしてくれるわけではありません。
私たちにとっていちばん大切なのは、今、生きている家族なのです。
六つの瞳の光に輝らされて -
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