知的障がい少年の裁判が、話題になっていたので今回採り上げます。東京・八王子市の施設から行方不明になり、死亡した知的障がいのある少年の両親が、施設が示した「逸失利益」ゼロを不満とし、「命に差別はない」と提訴。施設側も争う姿勢を見せている、という話です。
まとめ記事をリンクしておきます。
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知的障害少年が施設死亡「逸失利益」をめぐり両親損害賠償請求
亡くなった方の障がいがどれぐらいの重さで、どんな労働をして、施設がどのようなフォローをして、労働の対価がどのような決め方をしていたのか、といった詳細は報道だけではわかりません。
ただ、原告の請求が、生きていたときと同じ賃金相当を施設に支払え、ということなら、第三者的に見てむずかしいかもしれません。
施設側は、おそらく障がい者を雇用することで、補助金を受けているはずです。
亡くなればそれがなくなるわけですから、生きていたときと同じ金額を施設に支払え、という判決や和解案を裁判官が言い渡すかどうか。
たぶん、ご両親もそれはわかっているけれども、施設側が逸失利益を「ゼロ」としたことにショックを受け、「命に差別はない」という言い分につながっているのでしょう。
言い分はわかりますが、逸失利益は「命の値段」ではないんですよね。
年間、億を稼ぐ人もいれば、100万円ぐらいしか稼げない人もいて、そうした数字で将来を予測している「生産力」の予想です。
いずれにしても、障がい者の尊厳を否定しないような形で決着してほしいものです。
弱者が弱者を叩き落としても世の中は変わらない!
それにしても、私が今回改めて考えさせられたのが、ネット民の本件に対する戦慄を覚える誹謗コメントの数々です。
まとめ記事を見ると、原告は強欲だ、などというのはまだましな方で、まるで障がい者が働いてはいけないような、自分たちが障がい者を生かしてやっている、といわんばかりの読むに耐えないコメントが続いています。
これでは、「がん患者は働くな」と暴言をはいた、某国会議員を非難できるものではないでしょう。
駄目な政治家は、駄目な大衆の合わせ鏡ということがよくわかります。
それはともかくとして、これは、格差的不遇をかこつ弱者が、障がい者という、より弱い者を圧迫して溜飲を下げるという、救いのない、いやな光景ではないかと思いました。
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本質を見失ってはならない
最近は、生活保護受給者とか、弱者攻撃が目立ちますよね。
でもね、かりに、この人たちの望みどおり、弱者福祉を今よりさらに縮小したとしても、そこで「浮いた金」が、この人たちに分配されるわけではないと思いますよ。
より弱いところを叩いても、世の中は良くならないということです。
自分たちが良くなるためには、さらなる弱者に目を光らせて文句を言い叩き落とす後ろ向きなアプローチではなく、社会の仕組み、政治を変えなければならないのだ、という前向きな思考になれないもんかなあと思います。
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