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デビル紫の生き様をアメリカのプロレスラー集団訴訟報道で考える [スポーツ]

デビル紫

デビル紫という元レスラーのインタビュー記事を、『日本プロレス事件史 vol.15 引退の波紋』(ベースボールマガジン社)という、いつものプロレスムックで読みました。今日は、ヤフーのトピックスで、アメリカのプロレスラー集団訴訟に関するニュースが注目されていたからです。(上の画像はGoogle検索画面より)

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まず、ニュースのまとめサイトをリンクします。

元レスラーらWWEを相手取り集団訴訟「脳障害のリスク隠した」

元記事を要約します。

ジミー・スヌーカ、ロード・ウォリアーズのアニマル・ウォリアーポール・オーンドーフキングコング・バンディら、往年の名レスラー50人以上が、損害賠償などを求める訴訟をコネティカット州の連邦地裁に起こしたそうです。

脳などの損傷を患ったのは過酷な試合によるものだとして、かつて所属していたプロレス団体、ワールド・レスリング・エンターテインメント(WWE)を相手取っています。

「脳などの損傷」がプロレスによるものであるとの因果関係もさることながら、それがWWEの試合に起因すると立証するのは、第三者的に見ても大変だろうなあと思います。

なぜなら、名前が出ているレスラーは、WWEのリングでだけ働いていたわけではありません。

もともとアメリカの別の地区で売り出し、日本にも来て活躍。

それが見込まれてWWE入りしているからです。

まあそれだけ原告は、引退後の生活やコンディションが切羽詰っているのかもしれません。

プロレスラーという職業が、いかに過酷で、かつ第二の人生を展開しにくいのかを物語っているのでしょう。

日本のレスラーも、事情は同じようなものだと思います。

そんな中で、例外的に堅実な第二の人生を過ごした人の話を、『日本プロレス事件史 vol.15 引退の波紋』(ベースボールマガジン社)で読みました。

デビル紫という、国際プロレスに所属していた覆面レスラーです。

先日、ご紹介したストロング小林なら、タレント活動もあり、多少は名が知られているかもしれません。

『日本プロレス事件史 Vol.20』ストロング小林がスターの時代

が、デビル紫については、昭和時代のコアなプロレスファンでなければわからないでしょう。

そんなマニアックなレスラーですが、その人生には、私たちにも教訓となることが含まれているように思ったので、簡単にご紹介します。

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自費でアメリカに行きプロレスラーとしての存在をアピールする


デビル紫こと村崎昭男氏は、ストロング小林とほぼ同期。

しかし、会社からはまったく期待されていませんでした。

同期や後輩が、次々アメリカ武者修行のチャンスをもらっているのに、自分はいつまでも前座。

そこで、会社がハワイに慰安旅行に行った時、社員から金を借りて、そのまま自費でアメリカに残りました。

そして、デビルムラサキという覆面レスラーとして、会社に頼ることなくアメリカのインディアナポリス地区で人気レスラーとなりました。

しかし、それでも会社からは帰国の話はありません。

3年半後に、また自費で帰国しますが、会社は“日本人初の本格覆面レスラー”であるにもかかわらず、デビル紫を売りだそうとはせず、相変わらず前座のままでした。

当時、国際プロレスはラッシャー木村金網デスマッチを興業の柱にしていたので、デビル紫の使い方まで行き届かなかったのでしょう。

その後、37歳で引退。

1年間、営業にまわりましたが、38歳で今度は国際プロレスが倒産

39歳で結婚しましたが、その頃は定職が見つからず仕事を転々とし、40歳で警備会社に就職。

以来、年金の受給資格まで(つまり25年間)つとめあげ、ギリギリ定年前に年金の受給資格をクリア。

今は年金生活で孫も産まれたそうです。

そして現在のプロレスマニアからは、本格日本人覆面レスラー第一号として、現役引退してから30年経った今、やっとその存在が再評価されています。

まとめ


デビル紫の生き様を見ると、

1.会社からは大事にされなくても、自力でプロレス人生を切り開いた
2.決してツイている人生ではなかったけれど、やけを起こさずまじめに生きた
3.40歳から勝手の違う第二の人生(サラリーマン)を始めても、ちゃんとつとめあげた
4.努力した生き様が時間がたって成果として現れた


ことがわかります。

これ、私たちにとっても「気づき」とすべき点があると思いませんか。

会社に不満ばかりで、自分はその打開に何もしようとしない人っていますよね。

環境が変わるとそこで負けてしまう、人生の先を勝手に見通して諦めてしまう弱さってありますよね。

地味ですが、デビル紫の人生には、そうならない勇気と努力と忍耐があったのです。

デビル紫は、サラリーマンになってからは、プロレス関係のイベントには一切参加しませんでしたが、最近になって、やっと参加する気持ちの余裕ができたそうです。

今度は、実際にトークショーに参加してみたいと思いました。

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ベースボールマガジン社
  • 発売日: 2015/11/17
  • メディア: ムック


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コメント 10

yamatonosuke

初代タイガーマスクの時代ならマスクマンとして日本で活躍出来たかも知れませんね。
by yamatonosuke (2016-07-20 00:24) 

うつ夫

売り出せなかったのは好敵手がいなかったのでは?
by うつ夫 (2016-07-20 01:47) 

pn

あ、俺もう受給資格あるんじゃん!あとは受給までどう生きるかかぁ。あと17年あるからなぁ・・・
by pn (2016-07-20 06:30) 

Take-Zee

おはようございます!
プロレス・・と言えば。
”力道山”の世代です。

by Take-Zee (2016-07-20 07:09) 

MI

プロレスは父親の影響で幼いころから観ていましたが自分の世代はやはり初代タイガーマスクやミル・マスカラスでした。

ちょっと疑問に思いましたが確か日本人初の覆面レスラーといえばストロング小林の覆面太郎だと記憶にしていましたがデビル紫はその後ではなかったでしょうが?

もし、間違っていましたら申し訳ございません。
by MI (2016-07-20 08:49) 

やおかずみ

プロレスは力道山が活躍したころ、今から考えると画像の
悪いモノクロテレビにかじりついて観た思い出があります。
by やおかずみ (2016-07-20 10:15) 

tachi

プロレスは友人が好きでたまに見ていたくらいですが
あれだけ、体型のいい人が何回もぶつかりあうのですから
体調は悪くなるのでしょうね

by tachi (2016-07-20 11:22) 

makkun

1950年代の終わり頃に隣の家にテレビが入り
プロレスの時間が来ると見せて欲しいと
近所の子供達が集まって観せて欲しいと
行ったものでした・・
力道山とルー・テーズの戦いに一喜一憂していたのが
とても懐かしいです(*^-゚)v♪

特別に被写体ネタが無い時はマクロレンズで
面白く撮ってブログネタとしています(笑)
by makkun (2016-07-20 14:07) 

扶侶夢

デビル紫という選手は知りませんでした。
とても天晴れな生き方をしている方ですね、尊敬します。

こういった隠れたヒーローにスポットを当てた記事は読んでいてためになり有り難いです。
by 扶侶夢 (2016-07-20 21:37) 

しきみ

クーラーですが、元々冷え性なので扇風機で十分でした。
流石に、ここ数年はきついなぁとは思いますが、電気代も高いし、熱中症にならない程度に我慢の夏です。
まあ、平日日中は職場で冷房に当たってますし、朝晩辛いだけなので何とかなってるというのもありますが。
自分が学生の時から、平均気温が上がってますので、熱中症にだけは気をつけなきゃと思っています。
by しきみ (2016-07-20 22:37) 

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