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おくのほそ道(原作/松尾芭蕉著、作画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス) [仏教]

おくのほそ道(原作/松尾芭蕉著、作画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)

おくのほそ道(原作/松尾芭蕉、作画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、紀行作品の代表的存在を漫画化したものです。作品中に、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の、紀行及び多数の俳句が詠み込まれています。

松尾芭蕉は、近松門左衛門、井原西鶴らと並んで元禄三文豪に数えられている、文学史上に名を残す大俳人です。

生涯読んだ句は約900句といわれています。

“侘び・さび・細み”の精神、“匂ひ・うつり・響き”といった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した文章表現を通して多くの人々を魅了し、「俳聖」と呼ばれるようになったのです。

その代表作が、紀行と俳諧がまとめられた『おくの細道』です。

元伊勢長島藩の武士である、門人の河合曾良を伴い江戸を発ち、奥州(今の岩手県)、北陸道を巡った紀行文です


紀行と俳諧の作品を漫画化するのはめずらしいことですが、まんがで読破シリーズ全56巻の、第48巻として刊行されています。

本書はKindleUnlimitedの読み放題リストに含まれています。

「月日は永遠の旅人。私にとって、旅は人生そのものだ」


舞台は、江戸・深川。

46歳の松尾芭蕉が、旅支度をするところから始まります。

西国の旅から帰ってきたばかりなのに。

「月日は永遠の旅人。私にとって、旅は人生そのものだ」と言います。

見送りに来た、門弟たちを詠います。

行く春や
鳥啼き魚の
目は涙

この世は、夢幻のようにはかなく、別れの涙など無用だと知りながらも、これからのはめかな旅路を思うと、別れを惜しまずにはいられない、と松尾芭蕉は思います。

河合曾良を伴った松尾芭蕉は、草加から日光へ。

あらたふと
青葉若葉の
日の光

次に、那須の黒羽を目指し、そして蘆野へ。

田一枚
植ゑて立ち去る
柳かな

もう田一枚植え終わるほどの時が経っていたようだ。

そして、白河の関を超えて、みちのくへ。

早苗とる
手もとや昔
しのぶ摺り

今、稲の刈り取りをしている娘たちの手つきを見ていると、昔しのぶ摺りをしていた手つきが偲ばれるようだ。

5月には仙台に着きました。

あやめ草
足に結ばん
草鞋の尾

端午の節句の菖蒲草を思わせる、紺の染緒の草履は、邪気を払い、旅の健脚を守ってくれるだろう。

さらに、北上川にそって歩き、源義経が非業の死を遂げたと言われる高館(岩手県)に着きました。

夏草や
兵どもが
夢の跡

義経一頭や藤原一族が、功名・栄華を夢見た場所だが、今はそれも儚く消え、ただ夏草が茂っているばかりだ。

山形・尾花沢から馬で行くこと七里。立石寺に向かった。

閑かさや
岩にしみ入る
蝉の声

立石寺は、心澄むように静まり返っていた。

最上川の舟下りも経験。

五月雨を
あつめて早し
最上川

もともと急で知られる最上川が、折からの五月雨を集めて、凄まじい勢いで流れ下っている。

日本海側を南下して石川県の山中温泉にたどり着きましたが、ここで河合曾良がギブアップ。

とうとう、松尾芭蕉は、みちのく一人旅です。

敦賀で宿を取りましたが、北国の天気は変わりやすいと嘆きます。

やっと秋晴れになり、種の浜に船を出したものの、夕暮れの寂寥感に胸を突かれます。

寂しさや
須磨に勝ちたる
浜の秋

この夕暮れの寂しさは、『源氏物語』以来、よくいわれる須磨の浦の秋の寂しさに勝るようです。

そして、みちのくの旅の終着地、大垣に着き、元気になった河合曾良と再会します。

しかし、江戸の自宅はもう処分してしまいました。

松尾芭蕉は、次の旅に出ることを考えています。

「今度は、伊勢神宮の遷宮式を拝観しようと思ってね」

蛤の
ふたみに別れ
行く秋ぞ

離れがたい、蛤のふたと身が別れるように、名残を惜しみながら人々と別れ、松尾芭蕉は伊勢の二見ヶ浦へ旅立っていきました。

東海道と松尾芭蕉


『おくのほそ道』は奥州、北陸の紀行でしたが、松尾芭蕉は東海道も詠っています。

川崎南部の川崎区にある、京急線八丁畷駅近くに、松尾芭蕉の句碑と、川崎市の説明板があります。


松尾芭蕉と門弟たちは、東海道川崎宿で惜別の句を詠み合ったといわれています。

松尾芭蕉が江戸深川を出発して郷里に向け東海道を旅する途中、江戸から送ってきてくれた門弟たちといよいよお別れをすることになりましたが、門弟たちは名残惜しくてなかなかわかれることができません。

そこで、八丁畷の茶屋でだんごを食べながら詠み合った惜別の句なのです。

門弟たちは、松尾芭蕉に対してこのような句を読んでいます。

刈り込みし 麦の匂いや 宿の内 利牛
麦畑や 出ぬけても 猶麦の中  野坡
浦風や むらがる蝿の はなれぎは 岱水

松尾芭蕉はその半年後に亡くなったので、門弟たちとは結果的に“今生の別れ”になってしまいました。

ところで、冒頭で「旅は人生そのもの」と門人たちに言ったとする松尾芭蕉の言葉には、仏教の世界観が垣間見えますが、芭蕉の研究本によると、延宝九年(1688年)頃、臨済宗の仏頂和尚に禅を学び、それまでの生き方を大きく変えたといいます。

また黄檗宗(おうばくしゅう)の僧が持つ、十八連の数珠をいつも首に掛けていたといいます。

臨済宗も黄檗宗も、禅宗です。

禅を組んで悟りを開くという、ある意味お釈迦様の仏教に一番近い大乗仏教です。

ただし、得度したという記録はないようなので、在家信者、もしくは仏教の教えに共鳴した「シンパ」といったところかもしれません。

それにしても、日本の文学作品や作家は、仏教の影響を受けていることが多いですね。

東北や北陸を旅行された時に、芭蕉の句碑に出会ったことは有りませんか。

おくのほそ道 (まんがで読破) - 松尾 芭蕉, バラエティ・アートワークス
おくのほそ道 (まんがで読破) - 松尾 芭蕉, バラエティ・アートワークス
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赤面症

あの旅姿は禅僧ルックでしたか\(^o^)/
by 赤面症 (2023-08-12 01:07) 

十円木馬

数十年前、滋賀県の琵琶湖に旅行に行った帰り、偶然寄った「義仲寺」に芭蕉の墓があり驚いた記憶があります。
by 十円木馬 (2023-08-12 07:37) 

Take-Zee

こんにちは!
いっとき、芭蕉さんが隠密だったと言われましたが
その後、どうなったかな?

by Take-Zee (2023-08-12 08:51) 

pn

旅が人生、人生が旅。みんな旅人なんすよ。
平泉で夏草やの石碑見たなぁ、結局は生者必滅会者定離(字これだっけ?)。
by pn (2023-08-12 11:39) 

そらへい

高校の教科書で暗記させられましたね。
その後も何回か読んでいるはずなんですが。
by そらへい (2023-08-12 19:39) 

コーヒーカップ

中高の時よく芭蕉のことは

by コーヒーカップ (2023-08-12 23:22) 

いっぷく

みなさん、コメントありがとうございます。

>あの旅姿は禅僧ルックでしたか
そうですね。曹洞宗の僧侶である妻の母が、妻が心肺停止した時、その格好で救急病棟に面会に来たときは、さすがに空いた口が塞がりませんでした。瀕死の重体病棟に坊主ルックはないだろうと。
by いっぷく (2023-08-13 02:35) 

tai-yama

なんで、北は岩泉までだったんだろう。
と言っても、今でもバイクで青森まで行くには
関東人としては結構大変(笑)。
by tai-yama (2023-08-13 20:33) 

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