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マサ斎藤、1970~80年代の新日本VS全日本対立の契機を作った男 [スポーツ]

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マサ斎藤(斎藤昌典、元プロレスラー)が14日に亡くなったと、Yahoo!のトップページで報じられて急上昇キーワードです。1999年に引退。2000年からパーキンソン病の治療を受け、2013年に障害者手帳の交付を受けていたそうです。



マサ斎藤というと、プロレスマニアからすれば、狼軍団や巌流島の対決などについて語りたいところでしょう。

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Google検索画面より

昭和プロレスマニアの私としましては、2つの昭和時代のエピソードをまとめてみます。

マサ斎藤は、明治大学の斎藤昌典時代、レスリングの日本代表として、1964年の東京オリンピックに出場しています。

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『実録・国際プロレス』より

東京オリンピックをご覧になった方は、覚えていらっしゃいますか。

卒業後は、明治大学の先輩である杉山恒治(サンダー杉山)とともに、1965年に日本プロレスに入門しました。

ちなみに、これが力道山三回忌(1965年暮れ)で集まった日本プロレスのレスラー一同です。(『激動の昭和スポーツ史10』(ベースボール・マガジン社)より)
力道山三回忌.gif

左端がマサ斎藤なのですが、全員の名前がわかるプロレスファンはもういないかもしれませんね(クリックで拡大)

その翌年、付き人をしていたことがあるアントニオ猪木が、豊登道春の誘いで日本プロレスを脱退して東京プロレスに移ったため、マサ斎藤も行動をともにします。(当時は斉藤昌典名義)

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しかし、東京プロレスはすぐに崩壊。

アントニオ猪木は日本プロレスに出戻りますが、日本プロレスからつけられた条件は、「連れてきたい若手は3人まで受け入れる」。

そこでアントニオ猪木が選んたのは、北沢幹之(新海弘勝→魁勝司)、柴田勝久、永源遙。

“選に漏れた”ラッシャー木村やマサ斎藤、寺西勇らは行き場を失い、ほとんどは新興の国際プロレスに移りますが、マサ斎藤は“プロレスの本場”アメリカに活路を求めます。

といっても、そう簡単なことではありません。

昭和の時代に、日本人レスラーがアメリカ遠征することは珍しくありませんでしたが、所属団体が片道切符を用意し、少なくとも最初は所属団体と現地プロモーターとの友好関係や信頼関係をバックに仕事ができました。

が、マサ斎藤は東京プロレスが崩壊したため最初から全くのフリーで後ろ盾がなく、さぞ大変だったろうと思います。

その中でも、マサ斎藤は長くアメリカで活躍しました。

日本のプロレス界では、アントニオ猪木の存在が大変大きいのですが、“プロレスの本場”アメリカの複数のテリトリーで長くトップレスラーとして仕事ができた日本人レスラーというと、ジャイアント馬場、ヒロ・マツダ、キラー・カーン、そしてマサ斎藤……

とにかく、そう多くはないでしょう。

“本場”で通用した数少ない日本人レスラーとして、高い評価を与えられるレスラーだとおもいます。

新日本・全日本の対立の景気を作った漢


そして、日本プロレス史という視点から見ると、新日本プロレスを作った人、といっても過言ではないと思います。

1971年暮れに、アントニオ猪木が日本プロレスを除名になり、翌春には新日本プロレスを旗揚げ。

日本プロレスでは、在外の有力日本人レスラーが合流しないように、アントニオ猪木と近かったマサ斎藤を、第14回ワールドリーグ戦に招聘しました。

『日本プロレス事件史19』第14回ワールドリーグ戦でぶちあげたモンスーンの軍団抗争宣言より.png
『日本プロレス事件史19』第14回ワールドリーグ戦でぶちあげたモンスーンの軍団抗争宣言より

結果的にはこれは逆の目が出て、マサ斎藤は、ここでNETテレビ(現テレビ朝日)との接点ができたわけです。

その後、ジャイアント馬場も日本プロレスをやめて全日本プロレスを設立。

猪木を追い出し、馬場におん出られた日本プロレスは、NETの日本プロレス中継の視聴率が落ち、興行自体も観客動員が急降下しました。

一方、アントニオ猪木は独立したものの、当時の夫人であった倍賞美津子や、贔屓筋がまだ残っていた豊登道春がチケットを売るものの客足は経営を安定させるには足りず、日本プロレスがあったために外国人レスラーも大物を呼べずに苦戦中。

そこで、NETは、日本プロレスと、アントニオ猪木の新日本プロレスの合併を企てます。

そのキューピット役として動いたのが、日本プロレスの坂口征二とはともに明治大学出身、日本プロレス時代は猪木の付き人で東京プロレスも行動をともにしたマサ斎藤だったといわれています。

当時、アントニオ猪木は、「馬場なんか3分で片づけてやる。坂口は片手で3分だ」とマスコミでぶちまけ、坂口征二はそれを受けて、「自分は全日本の柔道チャンピオンだ。1分でぶっ倒してやる」と応じて険悪になっていました。

が、このときはどちらもカネが苦しいときだからか、六本木らん月で腹いっぱい食べながら話し合ったら、すっかり仲直りしてしまったようです。

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食べ終わって満足して出てきたところ(笑)
(「東京スポーツ」2009年11月25日付より)


このあと、大木金太郎の反発で1度は決まった合併話が壊れ、坂口征二とレスラー3人だけが新日本プロレスに合流することになりましたが、NETテレビは新日本プロレスを放送。以後隆盛を築きます。

一方、老舗の日本プロレスは崩壊してしまいました。

もし、あのとき坂口征二とアントニオ猪木を結び付けなかったら、坂口征二は間違いなくジャイアント馬場の方へ行ったでしょうし、テレビ中継もなく坂口征二もいない新日本プロレスのその後はどうなっていたかわかりません。

その意味で、マサ斎藤は、1970~80年代における新日本プロレスと全日本プロレスの対立時代の契機を作った男とも言えるでしょう。

マサ斎藤さんの生前のご遺徳をお偲び申し上げます。

プロレス「監獄固め」血風録―アメリカを制覇した大和魂
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ナベちはる

いなかったらプロレスラー界の歴史が大きく変わった方、損失も相当大きそうですね…
by ナベちはる (2018-07-17 00:13) 

末尾ルコ(アルベール)

マサ斎藤、1970~80年代の新日本VS全日本対立の契機を作った男・・・2000年からパーキンソン病を患っていたということですね。パーキンソン病の罹患原因を一概に決めることはできませんが、プロレスラーという過酷な仕事がその一因になっていた可能性は否めません。それを考えると、現在のプロレスラーたちの、頭から落とす、頭から落ちる技を連発するスタイルは、レスラーたちの将来に禍根を残す確率が大きく高まるのではないかと懸念します。最早そうした危険なスタイルでしか盛り上がれないファンばかりになっていることも大きな懸念材料だと思います。
マサ斉藤については、常に「いかにも本当に強いに違いない」雰囲気を漂わせておりましたね。長州力とのコンビで注目を集めた時も、「マサ斉藤がいるから、観戦価値が上がった」感がありました。長州の突進のみのプロレスとは対照的に、懐の深いファイトぶりがよかったです。
「巌流島」については、わたしは「理解不能」という立場ですが、斎藤の死去を伝える記事はやはりこの試合を大きく扱ってますよね。結果的に猪木は斉藤に大きなプレゼントを贈ったことになったのだなと、訃報に接してそう感じました。もちろん猪木にそんな気はまったくなかったでしょうが、これも人生の不思議さです。思えばストロング小林らも、猪木戦がなければ、コアなプロレスファンだけ語り継がれる存在だったかもしれません。
マサ斉藤の米国での活躍ですが、ここは猪木の敵わない部分だと思います。米国は男子アマレスの盛んな国ですから、そのスポーツでオリンピックへ出場していたというと、日本でよりも一目置かれる度合いは高かったのではと想像します。特にレスラー間では一定のリスペクトを置かれていたのだと思います。


小山田圭吾に関するリンク、見させていただきました。あれは酷いですね。酷さが単純なものでなく、極めて複合的なまでに酷いです。まず、小山田のインタヴューが載ったのが、『ロッキング・オン・ジャパン』ですよね。わたしは10代のかなりの期間『ロッキング・オン』を毎月購読しておりまして、創刊者の渋谷陽一は吉本隆明を信奉する、いわば「左」の人で、もともと人権などについてはセンシティブなはずなのですが、こんなインタヴュー内容を作り、掲載するとは驚きです。例えば近年であれば、レディ・ガガが苛酷ないじめに遭っていた経験を告白し、「いじめはヘイト・クライムである」ことを宣言して大きな支持を集めました。『ロッキング・オン』も当然レディ・ガガ支持なのですが、90年代とは言え、こんな記事を載せていたのでは、人間性の根本を疑われても仕方ありません。
もっとも、後発の『ロッキング・オン・ジャパン』はわたしは一切購読したことはなくて、どのくらいのクオリティなのかはまったく知りませんでしたが、それにしても酷いですね。
『QJ』の方は男性向け総合誌なので、低レベルの記事があっても驚きはしませんが、しかしそれにしても酷過ぎます。いじめ被害者の母親へのインタヴューとか、いったい何を考えているんだ、と。こうして書いているとまたどんどん腹が立ってきますが、小山田とこの『ロッキング・オン』、そして『QJ』の担当者は、今からでも断罪すべきとさえ思います。小山田の語っている内容は、「いじめ」を通り越して、「犯罪」です。

小山田圭吾について言えば、「コーネリアス」という名のバンドがあったことは知っておりますが、おそらく当時は日本の音楽は一切聴いてなかった時期だと思いまして、どんな曲をやっていたかはまったく知りませんし、小山田圭吾という名はいただいたコメントで初めて知りました。
なので小山田の音楽がどのくらいのものなのかについては言及できませんが、当該のインタヴューの時点で「人間のクズ」であることは間違いありません。

「作品と創作者の人間性を切り離して捉える」という考えなのですが、この件はいろいろな「段階」があるので簡単に語ることはできないのですけれど、例えばもし小山田がある程度以上の音楽を作っていると仮定します。
この場合、「作品と創作者の人間性を切り離して捉える」というのは決して、「いい作品を作っているから、プライベートでどんなことをしていてもいいじゃないか」ではないのです。
このあたりを勘違いしている人が多いかもしれません。
そうではなくて、「作品は作品として客観的に評価はする」けれど、「人間としてクズという部分に対しては、徹底的に批判し、時に糾弾せねばならない」ということだと思います。
さらに、「いじめ(犯罪)のエピソードをしって、もうこいつの音楽は聴きたくなくなった」という人が多くいても、もちろん当然です。

繰り返しになりますが、小山田のやったこと、それをいい大人になってまだ自慢げに語っていたことは、「不倫」などというプライベートの問題のレベルではなく、「犯罪」に等しい行為ですし、90年代であったといっても、市販の雑誌であのような記事、許し難いことです。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-07-17 02:07) 

旅爺さん

お早う御座います。
昔は良くプロレスを見てましたがマサ斉藤さんは知りませんでした。その頃爺はプロレスに飽きちゃってたのかも?。
by 旅爺さん (2018-07-17 06:05) 

ヤマカゼ

プロレスはくわしくないのですが、巌流島の対決は聞いたことあります。
by ヤマカゼ (2018-07-17 06:17) 

pn

満腹って争いをなくすんですねo(^o^)o
by pn (2018-07-17 07:18) 

えくりぷす

今朝のテレ朝が、巌流島の対決の映像のすぐ後に、猪木の追悼コメントを読み上げていて、どうなっているのかさっぱりわかりませんでした。が、この記事を拝読して理解致しました。ありがとうございます。
by えくりぷす (2018-07-17 11:17) 

なかちゃん

巌流島の決選といったら、観客なしでやった試合じゃありませんでしたっけ?
当時テレビ朝日が放送されてなかったので、スポーツ新聞で記事を読むしかなかったので、あまり詳しく覚えていないんです(^^;

by なかちゃん (2018-07-17 11:22) 

ヨッシーパパ

読売新聞の朝刊にも記事が出ていました。
by ヨッシーパパ (2018-07-17 19:38) 

yamatonosuke

マサ斎藤のバックドロップが好きでした。
謹んでご冥福をお祈りします。
by yamatonosuke (2018-07-18 00:36) 

ニコニコファイト

マサさん好きだったなあ~^^
by ニコニコファイト (2018-07-18 06:49) 

Rinko

夕べ、夫が「マサ斎藤が亡くなったんだよー」と独りごちていました。
それを聞いた娘たちは頭の上に「?」がいっぱいでしたが、私はいっぷくさんのブログをすぐに思い出していましたよ。

by Rinko (2018-07-18 08:13) 

チナリ

おはようございます。

マサ斎藤さんが亡くなったことは、私もYahoo!さんのニュースにて知り、とても驚きました。

そして、いっぷくさんの記事の内容で「こんなことがあったんだぁ」といろいろと教えていただきました。

私が新日本プロレスを見始めたころは、マサさんはもう引退をされていて、解説者として活動されていました。

今でもいろいろな裏話をしてくださったことが思い起こされます。

その中でも特に私の印象深かったお話は、佐々木健介さんがホーク・ウォリアーさんのことを気にかけていたという内容でした。

間違っていたらスミマセンが、マサさんは新日本プロレスに外国人選手の方々を呼んだり、通訳されていらしたんじゃなかったでしょうか。

今は、愛弟子のノアで活躍されている私と同じ富山県出身のマサ北宮さんがマサさんの遺志を受け継いでいます。

これから活躍していってほしい選手の一人です。

マサさんの解説が本当に大好きでした。

長々と書いてしまってスミマセン。

謹んでお悔やみ申し上げます。

by チナリ (2018-07-21 06:53) 

Jerold

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by Jerold (2018-07-30 15:25) 

Hudson

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by Hudson (2019-08-16 11:06) 

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