『ガス人間第1号』(1960年、東宝)を鑑賞しました。本多猪四郎(本編)円谷英二(特撮)という2人の監督によって作られた特撮アクション映画です。当時は、怪奇空想科学映画シリーズと銘打たれたそうです。冒頭から銀行強盗のシーンで映画は始まります。(画像は『ガス人間第1号』より)
犯人は、吉祥寺・富田銀行の課長を殺害して逃走。
岡本賢治警部補(
三橋達也)は、パトカーで必死に追跡しますが、五日市街道にある日本舞踊の家元・藤千代(八千草薫)の家の近くて見失います。
藤千代は老人鼓師(左卜全)と稽古中でした。誰も来なかったといいます。
警部補(三橋達也)には、東都新報社会部記者・甲野京子(佐多契子)という恋人がいます。
お互いの職業上、協力しあったり、秘匿しなければならないことを探り合ったりしていますが、京子はさっそく藤千代の取材に走ります。
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銀行強盗は東海銀行でも起こり、行員の死因は血管に未知の気体の詰った窒息死でした。
一方、藤千代の金回りが急に良くなりました。強奪された紙幣と藤千代の使った紙幣が一致したため、岡本賢治警部補は藤千代を逮捕します。
すると、今度は大森銀行で事件が起こり、図書館に勤める青年(土屋嘉男)が、犯人は藤千代ではなく自分だと名乗りを上げました。
そして、犯行を再現すると言い、体が白いガスに変わったり、銀行の支配人(
宮田洋容)を窒息死させたりしました。
だったらそこで逮捕すればいいわけですが、ガス人間はその時もガスになって逃げてしまいました。
さらにガス人間は、東都新報編集長(
松村達雄)のインタビューを受け、自分が人体実験の失敗によって、いつでもガス状になることのできるガス人間にされてしまったのだと話しました。
ガス人間は、図書館で出会ってから藤千代に夢中になり、スポンサーになっていました。件の金も、田舎の土地を売った金だと言って藤千代に渡したのです。
釈放された藤干代は発表会を準備しますが、さすがに銀行強盗とわかったら金は受け取れません。
しかし、ガス人間は藤干代に、「君のすばらしい舞台を世間に認めさせてやりたいんだ」と訴え、藤千代はガス人間の気持ちを受け入れることにします。
警察では、田端警部(田島義文)が、発表会に現われるに違いないガス人間を会場ごと爆破させなければガス人間を殺すことはできない、生かしたままでは、ずっと捕まえることはできない、と決断。発表会のチケットを買い占めて爆破の準備を整えました。
当日、ガスを充満させて、発火装置にスイッチを入れれば爆破できるまでになりましたが、ガス人間はぬかりなく、発火装置のコードを切断していました。
そして演目が終わり、抱き合う藤千代とガス人間。そのとき、ガス人間の死角である彼の背中で藤千代はライターで発火。
一瞬にして会場は燃え上がり、さすがのガス人間も最期となります。
『ガス人間第1号』より
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特撮と心理描写を両立させる
まず、昭和35年の東京の町並みが見どころです。昔の映画なので当然ですが、カラー作品はこういう点もいいですね。
『ガス人間第1号』より
ガス人間がガス化するプロセスや、最後の爆発シーンなど、おそらくは現在の特撮技術と比較してもそれほど見劣りしていないのではと思います。
にもかかわらず、少年向け特撮ドラマとは違い、大人の「ごく普通の人間関係」や、葛藤も描かれています。
たとえば、日舞の家元が、殺人・強盗し放題のガス人間を受け入れ、しかしそれは人として許されないことだと思い定め、それと引き換えに心中するように自害する。
考えてみれば壮絶なストーリーです。
音楽家とか、芸事をおやりになっている方というのは、お金がかかるんですね。
で、活動するために、スポンサー、女の人の場合には「ダンナ」がいる場合があります。
一般の女性の間でも、ひところ「三高」なんて言葉が流行しましたが、この場合の「ダンナ」は、もうお金一択です。
そんな立場でありながら、「ダンナ」を超えていつしかフツーの愛に昇華した家元の苦悩を描いたのではないでしょうか。
まあ要するに、特撮でありながらこれほど本格的な大人のストーリーを構成したということ自体が、この作品の特徴なのかな、というのが私の結論です。
特撮映画は、特撮そのものがセールスポイントですから、人間関係や相克など心理描写にフォーカスするよりは、その特撮によるファンタスティックな世界やストーリー展開を強調するものなのですが、同作はあくまでも人間の心を描いたということなのでしょう。
もらい泣きしたり、しんみり余韻を残したり、手に汗を握ったり、といったインパクトがあるわけではありませんが、90分かけて鑑賞するのは惜しくない作品であると思います。
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