小林幸子が島倉千代子さんの葬儀に出席させてもらえないという記事が『東京スポーツ』(11月16日付)に出ていました。できない理由として、昨年の騒動が尾を引いていると書かれています。しかし、あの騒ぎ方ほどマスコミのインチキぶりが明らかになったものはないでしょう。芸能は報道も含めてエンタメだ、と頭からコバカにするあなた。そこには、国民とマスコミの関係を考えさせる教訓が含まれていますよ。今日はそのことについて書いてみます。
昨日のこのブログの記事、「
みのもんたと板東英二の違い」について、「結論が何を言いたいのかわからない」という意見がありました。
みのもんたの行為や言い分はたしかにおかしい、しかし、板東英二は次元が違う。
そこまではわかる。が、だからどうだというのだ、というわけです。
たしかに記事はそこまでしか書いていません。
遅ればせながら、改めて結論を書きます。
マスコミのさじ加減で叩く対象はいかようにも操作できる、ということです。
マスコミがマスコミの意図で悪役を選び作り出すことができる
ということです。
しかも、狡猾なのは、全く非の打ち所のない人を叩くと当然違和感があるので、大衆が納得できる、確かに叩くべき問題点をもっている人を「叩く対象」に選んでいるということです。
みのもんたは、ちょうどいいターゲットだったわけです。
叩く対象を一人作ることで、他の問題にすべき人&出来事はかすんでしまいます。
巨悪隠しができるわけですね。
叩き記事は、たとえば政治の一大事に対する国民の注意力も削ぐ働きもします。
何より、意図された一方的な情報の発信により、国民はきちんと物事を考えられなくなっていきます。
だからそんなものにいちいち額面通り乗っかっても、マスコミの注文にハマって結局国民は損をするだけだ、ということを書きたかったのです。
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昨年の小林幸子騒動を覚えていますか。
小林幸子が大恩ある自分の事務所の社長と専務を切ったというストーリーで、芸能マスコミは彼女を叩きまくりました。
スポーツ新聞も週刊誌もワイドショーも、連日“小林幸子恩知らず”の大合唱でした。
しかし、しょせん一タレントの個人事務所内の「内紛」なのに、なぜわざわざ「社会の公器」がしゃしゃり出て叩く必要があったのか。
だいたい、小林幸子は小林幸子自身がいてこそ成立しているもので、いくら女社長が影で支えようが、ファンは女社長に金を落としているわけではありません。
なぜ、裏方風情の言い分を一方的にとりあげて彼女をかばったのか。
芸能マスコミの扇情的な報道と距離をおいてみれば、賢い人ならそこでもう、うさんくささを感じるはずです。
すでに当時から、一部のスキャンダリズムメディアは、その理由をほのめかしていました。
芸能界に影響力のある某氏が、女社長の味方についたから、その人との癒着で首根っこを押さえられている芸能マスコミは遠慮して、女社長の側に回ったからだと。
そして一昨日の『東京スポーツ』(11月16日付)に、“今更”それを裏付ける報道が出ました。
小林幸子が、レコード会社の先輩である島倉千代子さんの葬儀に出られなかった理由がこう書かれています。
「島倉さんの葬儀は、芸能界の実力者たちが仕切っていました。小林は昨年勃発した個人事務所の“お家騒動”で、そのあたりと敵対関係になってしまった。今年に入ってもくすぶったままでした。そのため葬儀にも参列しないよう要請があったとか。そもそも小林は既に仕事が入っており、参列はできない予定だったのですが…」と音楽関係者。
『東京スポーツ』は婉曲に書いていますが、スキャンダリズムジャーナリズムが推理したとおりではありませんか。
それにしても、『東京スポーツ』は記事で、「大先輩と最後のお別れができなかった小林はさぞ無念だったろう」などとすまして書いています。
が、昨年は『東京スポーツ』だってその“小林幸子叩き”の一員だったくせに、よくも他人ごとのようにそんなことを書けるなあと思います。
記事はまさに、小林幸子が列席できなかった責任の一端は自らにもあるということじゃないですか。
それはともかく、この件からもいえるのは、
マスコミが必死に叩いているときは、
叩かなければならない別の理由があるから気をつけなさい、ということです。
“たかが”芸能報道ですが、そこには国民とマスコミの距離のとり方において、教訓となるものが見えてくるようです。
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