SSブログ

梶原一騎、全体主義を否定した孤独の漫画原作者 [社会]

梶原一騎

梶原一騎。60年代後半から80年代前半にかけて、人気作品を次々と生み出した漫画原作者です。9月4日は、その梶原一騎先生が生まれた日です(1936年)。今年で27回忌を迎えた、この巨匠について今日は書いてみます。




昨年、このブログでは、『梶原一騎伝 夕やけを見ていた男と「伊達直人の贈り物」』という記事を書きました。

漫画原作者として長くその名をとどろかせていた梶原一騎氏が、出版社社員を殴り逮捕されたことをきっかけに、それまでの扱いが嘘であったようにマスコミはこの劇画原作の大家を叩き始め、各社が制定していた『梶原賞』をとりやめたのが83年。

暴力は容認できるものではありませんが、それまでさんざん儲けさせてもらったマスコミが、水に落ちた犬を手のひらを返していたぶりネタにするのは、いつもながらのやり方であり鼻白でした。

その後、メディアでは10年近く、梶原一騎氏をまるで黒歴史のように扱いタブー視されていましたが、高取英氏の『梶原一騎を読む』(ファラオ出版)や朝日新聞の連載コラム『新戦後がやってきた』、斎藤貴男氏の『夕やけを見ていた男ー評伝・梶原一騎ー』(新潮社刊)など、90年を過ぎると梶原一騎氏を再評価する読み物が上梓されるようになり、梶原一騎氏は“復権”することができました。

その『夕やけを見ていた男ー評伝・梶原一騎ー』によると、何点か面白いエピソードや指摘が書かれています。

梶原一騎は右翼的ではありましたが、決して全体主義者ではありませんでした。

梶原一騎氏が描く漫画のヒーローが、すべて孤独・孤高で世渡りもうまくない愚直な人間であることでそれはわかります。

こんにちのネットの、ネトウヨだの炎上だの、いじめだのといった存在や手法を、むしろもっとも嫌うタイプだったと私も思います。

梶原一騎氏が“転落”のきっかけになったのは、出版関係者に対する暴力事件ですが、気に入らないことはなんでも手を出していた無法者ではなく、たとえば作品の作り方も、漫画家の裁量を尊重する度量はあったようです。

「自分にはできない世界」だからとギャグ漫画家は尊重して赤塚不二夫氏らと飲んだり、ちばてつや氏が『あしたのジョー』の最初の部分を原作を無視して描いてもブチ切れず連載を続けたり、『タイガーマスク』や『ジャイアント台風』では辻なおき氏にストーリーの一部を“まる投げ”したりしていたようです。

まあ、ストーリーのまる投げというのは、褒めるべきところかどうかはわかりませんが、少なくとも作品を自分の意のままにつくり上げるという独善性はなかったということです。

梶原一騎氏のストーリーは、実在の人物を使った虚実ないまぜであり、現在ではまったく同じことはできないでしょう。

ただ、物語のディテールには人間の孤独や美学といった根源的なテーマが描かれているので、そのような“危ない”ストーリーでも読者を引き込む魅力がありました。

たとえば、若き日のジャイアント馬場を描いた『ジャイアント台風』。

昭和30年代後半、アメリカで修行中のジャイアント馬場が、鉄の爪フリッツ・フォン・エリックとの血戦に備えて特訓を開始。

地面を掘って顔を埋め、その上をジープが走るというシーンがありました。

鉄の爪.jpg


2人の対決は「オデッサの惨劇」といわれた、マットに血の海ができて両者が滑って転ぶ(笑)プロレス史上最も凄惨な無効試合になったという話です。

この特訓シーン、もちろん実際にはありません。

というより、そもそもジャイアント馬場はその時期にフリッツ・フォン・エリックとは戦っていなかったといわれています。

これは、当時の日本プロレスで、ジャイアント馬場とフリッツ・フォン・エリックがドル箱カードであったことからつくられたエピソードだったのです。

でも描いた者勝ちで、「オデッサの惨劇」見たさにエリックの来日のたびに大会場は満員。ジャイアント馬場も人気者になりました。

まんが、興行の相乗効果ですね。

ただこのシーン。さすがに辻なおき氏も「これは……」と難色を示しましたが、梶原一騎氏が、「この特訓をやったから馬場はあんな顔になったんだよ」で押し通されたそうです。

作家の話し合いまで虚実ないまぜになっていたんですね。

それ以外にも、力道山は入門を志願したジャイアント馬場の両手両足にバーベルを括りつけ、シャワールームに蜂の巣と一緒に放り込んだり、ニューヨークのマンホールの蓋を開けて馬場にブリッジをさせてその上に乗ったりなど、今なら笑いの材料にされてしまうようなシーンも出てきます。

でも、当時の少年たちはドキドキしたり、感心したりしながらそれを読んだのです。

嘘を書くのはけしからん、というより、読者を作品の世界に引きずり込んだ“詐術”を私は褒めたいですね。

スポンサーリンク↓

梶原一騎、珠玉のベスト5


ということで、今回は私の独断で、梶原一騎氏の作品の中からベスト5を選んでしまいます。

1.タイガーマスク



1968年~1971年にかけて『ぼくら』や『週刊ぼくらマガジン』『週刊少年マガジン』などに連載されました。孤児院を抜けだして「虎の穴」でレスラーに養成されたタイガーマスクが、その孤児院のために「虎の穴」の掟を破り、報復に向かう相手と戦うという話です。

2.ジャイアント台風



1968年~1971年にかけて『少年キング』に連載されました。プロ野球で挫折したジャイアント馬場が力道山の厳しいしごきとアメリカ修行で日本プロレスのエースであるインターナショナルチャンピオンになるところまでが描かれています。随所に作り話はあるのですが、実在の人物の半生記という体裁が説得力をもたせています。

3.巨人の星



1966年~1971年にかけて『週刊少年マガジン』に連載されました。父親が志半ばで退団した巨人のエースになるべく、少年時代から野球の英才教育を受けた主人公が高校野球、そして巨人入りしてからの試練を描きます。重いストーリーですが、時折、作画担当の川崎のぼる氏のギャグマンガ風な絵がホッとさせてくれます。

4.あしたのジョー



1968年~1973年にかけて『週刊少年マガジン』に連載されました。梶原一騎作品のファンは、ふつうはこれを第1位にすると思います。梶原一騎氏も、本当はボクシング漫画をいちばん書きたかったといわれます。ただ、ちばてつや氏の力量によるところも大きな作品だと思うので、今回は4位にとどめました。

5.男の星座



1985年~1987年にかけて『週刊漫画ゴラク』に連載されました。上の4作品とは全く違う作風で興味深いのですが、未完のまま梶原一騎氏は亡くなっています。この中で、軍部の拷問に耐え抜いた日本共産党の宮本顕治元名誉議長(当時委員長)を、はばかることなく絶賛しています。イデオロギーよりも「男の生き方」が大切だという梶原イズムの集大成と言えました。

私は、人間は無謬でも万能でもないと思うので、梶原一騎先生ならなんでも結構万歳と、手放しで絶賛するつもりはありません。

ただ、全体主義に背を向ける孤高の美学は、一人を恐れて便所で飯を食い、流行や雰囲気に流されてないと不安な大衆のメンタリティに対し、大いに教訓となりうるものだと思います。

弔花を編む 歿後三十年、梶原一騎の周辺 -
弔花を編む 歿後三十年、梶原一騎の周辺 -

nice!(319) 
共通テーマ:学問

nice! 319

Facebook コメント

Copyright © 戦後史の激動 All Rights Reserved.
当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます