『多数決を疑うー社会的選択理論とは何か』(坂井豊貴著、岩波書店)を読みました。タイトルどおり、私たちが決め事として選択している多数決が、「社会的選択」として「正当性を確保した」ものとはいえない、という懐疑的立場から、集団的な意思決定に潜む問題点を解説。日本国憲法の改憲制度にも踏み込んでいます。
いきなり結論から書くと、多数決は民主的でない、しかし、なかなかそれに変わるものもない、という話です。
多数決は、客観的に数の多さで決まるのだから、こんなに民主的なものはないだろうと思うかもしれません。
しかし、たとえば選挙で議員を選ぶときはどうでしょうか。
万人に「ある程度ウケる」候補と、特定の陣営からのみ明確な支持を取り付けた候補を比べた場合、有権者全体の印象は前者が上でも、後者のほうが票読みがしやすく、当選しやすい。
これは、ひとつの答えの数だけで決める多数決の矛盾ではないでしょうか。
議会の首相指名や、政党の党首選で行われる、過半数でなければ改めて上位2名の決選投票を行うという手法はどうでしょう。
一発の多数決よりも慎重のようですが、所詮多数決を2度重ねたもの。矛盾の拡大という面もあります。
たとえば、民主党政権最後の総理の野田佳彦氏のように、最初の選挙で1位でなかったものが選ばれたのは、鹿野グループが海江田万里氏から選択を変えたことによるものですが、じゃあ最初の選挙は何だったのという疑問が残ります。
本書は、ボルダルール、コンドルセ・ヤングの最尤法、陪審定理、オストロゴルスキーのパラドックス、中位投票定理、アローの不可能性定理、64%多数決ルールなど、様々な関連学説を紹介しながら、多数決というものを徹底的に突っ込んでいます。
それらの学説名だけ聞くと、読む気がしなくなるかもしれませんが、もちろん現実的な例もあります。
その中のひとつ、日本国憲法の改憲制度について言及していることをご紹介します。
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変える側は変えない側よりも厳しい
現在、国民投票による改憲可決ラインは過半数。
著者はここにも「疑う」点を指摘しています。
「国民投票における改憲可決ラインを、現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのがよい」と、第4章で述べているのです。
64%というのは、プリンストン大学の経済学者、アンドリュー・カプリンとバリー・ネイルバフの研究に基づいた複雑な計算から、可決に必要な割合が63.2%を超える時、多数意見の反映としての正当性を確保できるとしています。
そもそも、改憲については、国民投票以前に、
小選挙区制の問題があると著者は言います。
日本国憲法第96条は、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」とあります。
しかし、「総議員の三分の二」は、有権者による得票率や得票数の「三分の二」の反映というわけではありません。そこが問題だというわけです。
一票でも勝ちは勝ち、2位以下は死票という制度により、これまでの政権は、当選者の数では“地滑り的勝利”をおさめながら、実は得票率や得票数は過半数どころか、野党第一党とも10%程度しか差がないという、制度の矛盾によって勝たせてもらったものばかりです。
ですから、著者は「現行の改憲条項は弱い」、すなわち憲法を変えるハードルとして十分な高さではない、としているわけです。
しかし、憲法改正派の中には、「トンデモない」と思える人もいるようです。
Amazonのレビューでは、「裏返せば「変えない」という決定がたった4割弱の支持により決定してしまう」と文句を書き、著者の意見に政治的レッテルをはっている人もいます。
私には、著者の政治的立場や意図はわかりません。
が、少なくともこのレビュアーの批判には賛成しません。
考えても見てください。
裁判でも、主張を通すための立証責任は原告にあります。
ボクシングだってプロレスだって、引き分けではタイトルは移動しません。つまり事実上チャンピオンの「勝ち」です。
チャレンジャーは勝たなければダメなのです。チャンピオンと接戦とか互角ではダメなのです。
現行を変える側、事を起こす側には、そのままにする側以上のエネルギーや説得力や結果が伴うのは当然のことなのです。
変えるという国民の意志が、「正当性を確保」できるほどはっきりした数字なら変えるべき。
そこまでに至らないのなら現行を変えるべきではない。
著者のこの意見は、右とか左といったことではなく、ごく当たり前の話ではないでしょうか。
さきごろの「大阪市」をやめるかどうかの僅差の投票結果にしても、本書のデンでいえば、橋下案の否定派(「やめない」)が「正当性を確保」できたとはいえません。
しかし、「大阪市をやめる」という意見も「正当性を確保」できなかった。これも事実です。
本書の考え方に基づけば、だから「大阪市はやめない」ということなのだと思います。
チャレンジャーにとっては厳しいですが、「社会的選択」として、変えるということはそんなに軽いことではないよと著者は述べているのでしょう。
では、なぜ「変える」ということにそこまで慎重なのか。
人間は間違い得るものだから、と著者は述べています。
私はいつも書いているように、この著者の根本にある考え方に共鳴します。
間違うことが次への発展につながるものではありますが、少なくともそのときどきの選択は、「正当性を確保」したものでありたいと思います。
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