『他人の不幸を願う人』(片田珠美著、中公新書)を読みました。何ともネガティブなテーマですが、実際に人間はそのような情念を持っていることは確かであり、きちんと向き合っておく必要があると思いました。著者は、その背景には「羨望」「自己愛」「利得」などがあるとしています。その着目はなるほどと思いましたが、例示にいささか強引なところも感じました。
『他人の不幸を願う人』は、インターネットが普及している現在らしく、著名人を叩くネット民の心のさもしさが、いったいどこからくるのか、ということから、話を始めています。
web掲示板の無責任で容認出来ない書き込みの数々を見ると、人間の心の汚さが実によくあらわれていて、いったいなんでこんなことになるのだろう、という興味がわきます。
著者によると、他人の不幸を願う最大の要因は、「他人の幸福が我慢できない怒り」、それはすなわち羨望だといいます。
それは、他人に対するものだけでなく、自分の配偶者や、ときには実の子に対してもあらわれることがあるといい、こんな例を出します。
院生同士が結婚して、女性は妊娠して主婦に。男性は研究を続けて著名な学者になったものの、女性は夫の成功を願うどころか、研究者としての嫉妬から、教え子と間違いを起こして今の地位を失えばいい、と思う人がいる……
自分の子に結婚を進めるが、相手選びに文句をいうのは、自分より立派な配偶者と結ばれてほしくないという気持ちがある……
面白い例ですが、私は違和感がありました。
そりゃ、人間ですから、いろいろな人がいます。例に出したような人もいるでしょう。
でも、そうでない人もいますし、それどころか、自分が果たせなかったことを配偶者や子に成し遂げてほしいと思う場合もあります。
ではいったい全体の傾向はどうなのかと統計をとったわけでもなく、ドラマのストーリーにも使えそうな極端な例だけを強引に使って自分の仮説にリアリティをもたせようとしている感じがします。
「鬼女」は本当に正しいのか
web掲示板でお馴染みの「鬼女」について、同書では「女の幸せを許さない」ひとつの事例としてとりあげています。それ自体は大いに同意できます。
ただ、「鬼女」は「正しいこと」を振りかざして対象を叩くと書かれているのですが、私はそもそも「鬼女」に、執拗に振りかざすほどの正しさがあるとは思いません。
たとえば、「鬼女」は高齢出産というと異常な執着で叩きます。
そして、母体の安全性や胎児の「リスク」、産んだ後の子育ての大変さを説きます。
野田聖子議員長男の記事から、過去のバッシングと障がいを考える
しかし、若ければ母体は安全なのか、ダウン症など染色体異常児は高齢だから生まれるのか、といえば必ずしもそうではありません。
それに、これはあまりいわれていないことですが、「若いときの出産」は、医学的にはより安全であっても、実は現代社会では老々介護という社会的な矛盾にぶち当たるのです。
つまり、親と子の歳が近すぎると、後になってから困るのです。
自分が定年過ぎたら、やっと親が後期高齢者なんて、高齢出産の子育てよりもずっと大変だろうと私は思いますが、「鬼女」は絶対にそのような視点は語りません。
今の社会的な未熟さを考えると、親と子がある程度歳が離れるのは、むしろ必然であると思います。
高齢出産を奨励するという意味ではなく、高齢にならざるをえない現状の克服を目指すとともに、医学で可能なことならカバーするという見方は大切だろうと私は思います。
なんでも羨望とは限らないのだが……
また、本書は、羨望こそが諸悪の根源のように書かれていますが、やはり私は体験上、疑問を感じる点もあります。
たとえば、私は4年前に火災を経験し、全国ネットのニュースで2日間にわたって丁寧に報じられました。
そのために、著名人でもないのに、web掲示板には複数のスレッドがたち、あることないこと書かれました。
犯人扱いまでされましたが、少なくとも「火災に関する」書き込みという意味では「マシ」な方で
中には、私の子供について、歳をとってからの子であることをからかったり、子供の名前がキラキラネームであると断じたりしていました。(それ、火災と何の関係があるの?)
おそらく本書の著者なら、それを、不妊の人や、結婚できない「負け組」の羨望と分析するでしょう。
著者は、安藤美姫バッシングも、彼女に対する羨望と片付けていますから。
しかし、私は、それには疑問があります。
そういう人もいるでしょう。しかし、私が一般人であるのに、「羨望」はあるのでしょうか。
私の身分に関係なく、たんに人の不幸が楽しいことと、わずかな報道で自分の都合がいい(叩きやすい)ように出来事を思い描く「思い込み」が強いのだろうと思います。
それは、「自己愛」ではあるけれど、「羨望」とまでいえるのか。
安藤美姫バッシングにしても、著者は、フランスでは婚外子がたくさんいるのに、それがバッシングされるのはおかしいといいますが、著者はその経緯をきちんと見ていないのではないでしょうか。
なぜなら、安藤美姫が批判されたのは、婚外子かどうかという戸籍の問題ではなく、聞かれもしないのに「父親は明かせない」と話題作りに子供を使ってメディアを利用する「かまってちゃん」ぶりを批判されたのです。
人間には、人の不幸を求める残酷さはあると思いますが、それはすべて「羨望」に還元できるわけではありません。
たとえば、同和や在日外国人差別にしても、差別する側は、「羨望」を感じているから差別しているわけでないでしょう。
また、本書には、羨望の強い人は、好奇心や批判精神が強いとありますが、本来それらは人が生きていくうえで大切なものですから、著者の書き方はさらなる説明をしておかなければミスリードになりかねないという気がしました。
ただ、著者は後半で、格差社会や、何でも比較する格付け社会に、羨望や自己愛を肥大化させる社会的原因があるとも述べており、その点は賛成できます。
嫉妬心や不公平感とどう折り合いを付けるか
私は、子供の頃から「嫉妬」という感情が生理的に苦手で、友達を減らして世間を狭くしても、嫉妬心が見えてしまった「汚い心」の人とは、お付き合いしたくないなあと思っていました。
なぜなら、そういう人と付き合っていると、(非科学的ですが)こちらまで心が汚くなって運気が下がってしまうような気がしてしまうのです。
嫉妬心にとらわれてしまう人は、相手を妬むのではなく、逆に「あやかりたい」と考えるように発想を前向きに転換したらどうでしょうか。そのほうが自分にもプラスになります。
嫉妬の原因が、自分の努力で解決できない「不公平さ」「不条理さ」によるものなら、それは自分の責任ではなく、自分の「ほしのもと」が悪かったと割り切ることです。
そして、相手に八つ当たりするのではなく、「ほしのもと」の原因である親や先祖へのペナルティとして、お彼岸のお墓参りをボイコットしてやりましょう。
私は、自分に不幸や心の乱れがあったときは、そうして折り合いをつけてきました。
もちろん、自分の努力で解決できることまで、他人のせいにするようではいけませんが、そういう人が、嫉妬や羨望にシフトしているのでしょうね。
いずれにしても、他人の不幸を願っても、自分が幸せになれるわけではないことだけは確かです。
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