『日本プロレス事件史 Vol.20』(ベースボールマガジン社) というムックが、プロレスラーの入団・退団を特集していて、ストロング小林(国際プロレス→新日本プロレス)という昭和プロレスのレスラーについて触れられていました。晩年はタレントとしても活躍していましたが、かつては国際プロレスのエースでした。(上の画像はYahoo!検索画面より)
ストロング小林というレスラーをご存知ですか。
一時期、ストロング金剛という名でタレント活動を行っていました。
そのタレント活動時代の怪我がもとで腰を痛め引退。
現在は杖の必要な身だそうです。
私が先日、CSを見ていた時、たまたま『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(1985年4月14日~1996年10月6日、日本テレビ)が放送中で、その原因になったと思われるシーンが写っていました。
ストロング金剛が、砂浜に大きく掘られた落とし穴に落ちるのです。
100キロ以上ある人が、予想しないショックで、落ちたことで、相当腰に負担がかかったんでしょうね。
そのストロング小林が、全盛期のプロレスラー時代がどうだったかを、本人のインタビューも交えて『日本プロレス事件史 Vol.20』が振り返っています。
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元国鉄職員がゴールデンタイムで茶の間のヒーローに
ストロング小林こと小林省三は、父親が国鉄職員。
自身も都立高校卒業後、国鉄職員になりました。
ボディビルで体を鍛えていたところ、国際プロレスの吉原功社長にスカウトされ、できたばかりの国際プロレスに入団しました。
国鉄という安定した職場を辞めて、しかも当時は26歳。
国際プロレスとしては、待遇にかなり気を使ったようです。
IWA世界タッグ、そしてIWA世界ヘビー級選手権をとり、入門2年8ヶ月で団体のエースになりました。
『日本プロレス事件史 Vol.20』では、その超エリートぶりを詳しく書いています。
今は考えられないかもしれませんが、昭和40年代は、プロレスはゴールデンタイムで視聴率20%以上をとるドル箱コンテンツであり、国際プロレスはTBSが毎週水曜日午後7時から定期放送していました。
そのエースですから、1時間ドラマの主役俳優クラスの知名度を獲得したといっていいでしょう。
しかし、ここで問題が起こります。
いくら新興の団体といっても、レスラーという仕事は、だれにでもすぐ出来るわけではありません。
所属する同僚レスラーは、かつて他団体に所属して下積みの苦労をしていたり、他の競技で実績を作ってきたりした人ばかりです。
ストロング小林のような、スポーツ歴のない元国鉄職員が、いきなりエースでは、人間社会では「お約束」の嫉妬というものがあります。
ストロング小林は、当時「イジメ」があったと語っています。
その上、国際プロレスは団体の方針で、複数スター制の路線をとっていました。
ライバル団体は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木という大スターがいます。
そこで、AKB48ではありませんが、人海戦術で、絶対的なスターではなく、様々な個性を持つ複数の主力レスラーを揃えて対抗しようとしたのです。
しかし、チャンピオンのストロング小林としては、どうして自分だけではダメなのだ、と思ったのでしょう。
結局、国際プロレスを退団。
アントニオ猪木率いる新日本プロレスにしばらく在籍した後、タレント業をオーバーラップさせながらフェードアウトしました。
タレントとしてのストロング小林は、プロレスラーとしてのキャラクターを生かした荒っぽい仕事が多かったのですが、そのふるまいには、プロレスラーには似合わない優しさや腰の低さが垣間見えました。
またインタビューも、相手が何を聞きたいかをちゃんと理解して答えているので、プロレスファンにとっては、興味深いことがわかりやすく書かれている読み物になっています。
ただまあ余談ですが、近所で事件が起きて、「近所の人々」としてインタビューに登場したストロング小林は、上半身裸でした。
トレーニング中だったのだとは思いますが、いくらプロレスラーでも、こういう時はジャージぐらい着たほうがよかったと思いますね(笑)
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