『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと』死生観 [健康]
『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと 若き外科医が見つめた「いのち」の現場三百六十五日』(中山祐次郎著、幻冬舎)を読みました。「死」というのは、誰でもいつ訪れるかわからないこと。でも確実に訪れる。大事なことは、少しでも満ち足りた気持ちで旅立つことだという著者の思いが綴られています。
本書は、タイトル通り、外科医の書いた本です。
ただし、医学・医療のトレンドに直接言及したり、自分の治療法を紹介したりするものではありません。
医師を生業とする、一人の人間の、死生観を著したものです。
著者は外科医ですから、がんなど体にメスを入れなければならない重篤な病気を担当し、たくさんの患者の最期を看取ってきました。
そのとき、胸に去来するのは、医師とはなんだろう、医学・医療はなんのためにあるのだろう、ということ。
その経験から悟った著者は、死は怖くないよ、という話を書いています。
でもやはり、自分の存在が消えるということは、少なくとも当事者にとっては最大の恐怖でありストレスであるでしょう。
そこで著者は、しょせん「死」というのは、誰にとっても、いつどんな形で訪れるかわからない、でもかならず訪れる“不本意なもの”なのだ。
ならば、「死にたくない」と恐れてばかりではなく、それをいかに幸せな気持ちで迎えられるかが人生にとっては大切なことではないか、と述べています。
本書では、医療現場でのいろいろなエピソードも交えて、著者の意見を書いています。
医師は、科学者でもあるが、合理的には説明できないことを経験する、と正直書いている件は興味深く拝見しました。
たとえば、誰もいない部屋でカーテンが動いたとか、亡くなった人の病室からナースコールがあるとか……。
医師は誰でもそんな経験があるというのです。
もちろん、本書は、非合理主義、神秘主義に読者を誘う書籍ではありません。
医師の仕事は、人間についてごく一部しかわかっていない限られた範囲の行為にすぎない、という自嘲的な意味で書かれているのだと思います。
このように、前半は、いささか重いのですが、死をいつも考える青年医師の正直な思いが伝わってきて、好感をもてました。
ただ、後半になって、「ではどうすべきか」という結論を述べるあたりに、ちょっと疑問符がつきます。
人は生きてきたように死んでいくとは限らない
著者は、「人は生きてきたように死んでいく」というのが持論です。
どうやら、本書ではそのことがいいたいらしいのです。
一人寂しく亡くなるのは、そういう生き方をしてきた報いだ、ということを示唆したうえで、たくさんの人が見舞いに来るような最期をよしとしているようです。
私は、この肝心の部分が賛成ではないのです。
なぜなら、まず、「人は生きてきたように死んでいく」とは限りません。
著者の説では、いろいろな人のために尽くす人生を過ごすと、自分の最期にその人たちは見舞ってくれるそうです。
しかし、人を思いやれないような生き方の人は、最期は一人ぼっちになる……というのです。
これは、「そうなってくれればいい、そうじゃなければやってられないよ」という、著者の宗教めいた“美しい”主観に過ぎず、なーんの根拠もない話です。
というより、本人の意図や自覚がどうあれ、これはある意味、孤独死を侮辱すらしている考え方です。
たとえば、親孝行で、認知症の親の介護を精一杯頑張った立派な人がいたとしましょう。
著者の言うとおりなら、その人が将来認知症になっても、その頑張りが還ってくるはずです。
しかし、現実はそんな保証は全くありません。
身内がいなかったら、誰が見とってくれるのでしょうか。
いや、たとえ子どもがいたって、親孝行な子どもに育つという確証なんかありませんからね。
逆に、その人自身には人格に問題があっても、利用価値があれば、人は集まってきます。
著名人の葬儀にたくさんの人が集まるのは、もちろん生前の関わりがあるからですが、参列することで、自分はその人と関わりがあったんだよ、という参列者自身の自己PRになるからです。
最近は、そういうことがバレてしまったので、自分の死を利用されちゃかなわんと、著名人でも密葬が増えているのです。
つまり、人が集まるのは「利害関係」があるからであり、むしろ純然たる「人徳」で人を集める方が少ないでしょう。
たぶん、この著者は、医師の仕事に没頭しすぎて、世間をよく知らず、ピュアな人間観しかもてないのでしょうね。
ふたつめは、孤独死がそんなに悪いことなのか、ということです。
著者が本書で述べている通り、人間なんて、いつどんな形で最期を迎えるかわかりません。
ただ、少なくとも言えることは、亡くなった時に周囲に何人いるかが、その人の人生の値打ちを決めるものではない、ということです。
女優の大原麗子は、誰にも知られず亡くなり、1週間放置され、葬儀は母親と弟の2人だけで執り行いました。
⇒大原麗子さん、ドラマにも出てこないエピソード
そうなった理由の一つは、晩年、人当たりが悪くなったことは確かにあるらしい。
しかし、その後、「偲ぶ会」が開かれ、たくさんの人が集まっています。
つまり、著者の言い分には自己矛盾があるのです。
死はいつ来るかわからない不本意なもの、というテーマを掲げながら、死の時こそ人生の象徴のような言い方をしている矛盾です。
人生には山もあり谷もあって、たまたま谷の時に死んでしまうことだってあるわけです。
でも、それをもって、その人の人生はすべてその「谷」だったのかといったらそんなことはないのです。
大原麗子は、「谷」のときに亡くなったので、葬儀は肉親2人だけでしたが、時間がたち、トータルで彼女の人生を評価する浅丘ルリ子ら有志によって、「偲ぶ会」が開かれたのです。
ジャイアント馬場の場合、臨終時に立ち会ったのは元子夫人だけで、レスラーたちは、亡くなってからもしばらく知らされていませんでした。
⇒ジャイアント馬場13回忌、空白の27時間を明らかにする
それどころか、入院中の面会も断っていたようです。
自分の闘病の姿や死に顔は見せたくない、という気持ちがあったからでしょう。
ことほどさように、人が見舞いに来ないことが、当人にとって「不幸せな人生」であるとか「惨めな最期」であるとは限らないのです。
……で、私自身はどうかというと、今のところ、他人様に迷惑をかけない最期でありたい、とは思っています。
別に、孤独死だって、いいんじゃないでしょうか。
妻とも、お互い葬儀は要らないよね、身内にも知らせなくていいよね、なんて話しています。
何しろ妻はこれまで、1回死にかけ(癒着胎盤)、1回は事実上死んだ経験(心肺停止)があるので、死生観も達観してますね。
まあ、亡くなったら、それを知らせる手紙を親しい人に出してくれる、業者でも探しておこうとは思っています。
みなさんは、ご自身の最期、考えられていますか。
幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと 若き外科医が見つめた「いのち」の現場三百六十五日 (幻冬舎新書)
- 作者: 中山 祐次郎
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2015/03/25
- メディア: 新書
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