サンダー杉山、縁と信念を大切にした天才格闘家の人生 [スポーツ]
サンダー杉山のことがFacebookで話題になっていました。7月23日はサンダー杉山(1940年7月23日~2002年11月22日)が生まれた日です。まあ、Facebookのコメントですから、大したことは書かれていません。「懐かしい」とかね。もちろん、昭和プロレスファンとすれば懐かしい名前ではありますが、せっかくなので、もう少し踏み込んで思い出してみようと思います。
Google検索画面より
サンダー杉山というと、得意技は「雷電ドロップ」。
どんなすごい技かと思われるかもしれませんが、たんに寝ている相手の胸板に、自分が飛び上がって尻もちをつくだけ。
http://blog.goo.ne.jp/konoichi/e/97193c5dc3b8596267ee151892270884より
レスラーとして、ここだけを覚えている方には、タレントとしての活動も合わせて、ユーモラスなレスラーとして認識されているかもしれません。
たしかに、同業他社の日本プロレスでは、ジャイアント馬場が、209センチ、145キロで空中を舞う32文ドロップキックを売り物にしていましたから、“尻もち”ではちょっと華がないようにも見えます。
『東京スポーツ』(2015年1月30日付)より
『1964年のジャイアント馬場』17回忌のジャイアント馬場を思い出す
でも、それは、あんこ型である自分の体型を最大限アピールできるスタイルといえます。
そもそも、サンダー杉山が、たんなるユーモラスなだけのレスラーだったのかというと、そんなことはありません。
むしろ、類まれなる身体能力の持ち主と、強い信念を持った人だったのです。
『何度だって闘える サンダー杉山物語「一片の悔いなし!」』(安藤千絵著、流行発信) には、サンダー杉山の闘病生活から、逆境にも耐えて戦ってきた知られざる生き様が描かれています。
ビジネスとプロレスと
サンダー杉山こと杉山恒治は高校時代、柔道部に属していましたが、名門東海高校から同志社大学に進学。
事情があって大学を去るものの、すぐに声がかかり、明海大学に柔道部にコーチ兼学部の特待生として編入しました。いかに実力のある柔道家だったか、ということがわかります。
さらに、高校の時に声をかけてくれた明治大学に編入しましたが、やはり事情があってすぐに柔道部には入れないということで、いったんはレスリング部に所属します。
すると、入部してすぐに、ローマオリンピック最終予選にいきなり優勝。そのときはレスリングのキャリアがないからと結局選考から漏れましたが、次の東京オリンピック(1964年)まで待って出場権を獲得しました。
その後、日本プロレスに入団。
練習生・杉山恒治時代に、映画『喜劇駅前弁天』に出演しているのは、練習生の中からたまたま選ばれたというよりは、東京オリンピックの実績があったからなのかなあという気がします。
『喜劇駅前弁天』より
『喜劇駅前弁天』諏訪湖のほとりで繰り広げられる群像喜劇
オリンピックまで行ったアマレス選手ですから、もちろん、当時はレスラーとして期待されていましたが、アメリカでビジネスの勉強をしたいからと、2年でフリーになります。
もともと、プロレスラーになったのは、米国に渡る人脈を築くためだったそうです。
ところが、日本プロレス時代に世話になった吉原功氏の起こした新団体・国際プロレスに誘われて、いったんは入団しました。
『東京スポーツ』(2010年5月26日付)には、懐かしい国際プロレス時代の写真が公開されています。
他のレスラーが、タイツとリングシューズなのに、サンダー杉山が柔道着なのが目立ちます。
オリンピックに出たのはレスリングでも、自分の本当の居場所は柔道なのだ、と言っているようです。
普通、オリンピックに出たら、それは老後のひとつ話になるほど名誉なことのように思いますが、それを自慢しない“腰掛け”扱いというのは、別にレスリングではなくても何をやったって実績は残せるといわんばかりで、それだけ身体能力に自信があったんでしょうね。
そして、ビル・ロビンソンを破ってIWA世界ヘビー級チャンピオンになりましたが、程なくしてエースの座を後輩のストロング小林に任せて自分は引退。
自分の人生設計通り、医療用医薬品会社のスズケンに入社して、将来事業で独立する用意を始めました。
が、そこでまたジャイアント馬場に三顧の礼を尽くされて、今度は全日本プロレスのリングで3年半はたらきます。
その後、またフリーになり、古巣の国際プロレスや、新日本プロレスなどにもフリーレスラーとしてリングに上がりながら、自分が望んでいた事業をスタート。
ホテル、飲食業、自動販売機などいくつもの会社を持って、実業界でも成功をおさめました。
回り道も人生のプラスにする
サンダー杉山が生き方として凄いなあと思うところは、まず自分の目標を持って、それに向かって進むということです。
レスリングでオリンピックに出ても、それは“腰掛け”であるという考えはかえないし、国際プロレス時代にチャンピオンになっても、自分は事業をするから、という初期の目標を貫徹するために、あっさり引退します。
その一方で、そのときどきの成り行きには逆らわず、日本プロレスをやめたあと、すぐに事業を始めたいのを少し我慢して、国際プロレスや全日本プロレスなどに誘われると、その団体のリングに上がります。
自分にやりたいことがあるからといって、そこだけを見るのではなく、ビジネスは周囲の人達のご縁も必要だから、という見定めもあったわけです。
自分に強い信念があれば、そこでいったんはビジネスから遠ざかっても、いずれチャンスは来る、と考えたのでしょう。
結局、そのようなご縁を大切にする姿勢は、ビジネスを始めてから生きてきます。
たとえば、全日本プロレスでは、名古屋に遠征すると、サンダー杉山の経営するホテルを定宿にしました。
大学も3つ変わっていますし、決して平坦な道を進んだというわけでもないのですが、それでも成功をおさめたのは、類まれなる身体能力だけでなく、そうした縁と信念を大切にする生き方をしていたからでしょう。
2015-07-23 00:42
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