『何度だって闘える』情けは人の為ならず、短気は損気 [スポーツ]
『何度だって闘えるーサンダー杉山物語「一片の悔いなし!」』(安藤千絵著、名古屋流行発信)についてまた書きます。先日のこのブログの記事で、サンダー杉山(1940年7月23日~2002年11月22日)が事業で成功した背景には、不遇な生い立ちであることを克服した話を書きました。今回はもうひとつ、「情けは人の為ならず」について書いてみたいと思います。
Google検索画面より
サンダー杉山は、3つ大学を特待生で入れた柔道家であり、東京オリンピック出場経験のある元アマレス選手。プロレスラーになるとIWA世界ヘビー級チャンピオンになり、タレントとしても活躍。そしてレスラー引退後は、実業家として成功しました。
サンダー杉山、縁と信念を大切にした天才格闘家の人生
一見、何をやっても成功する人も羨む人生でしたが、それはもちろん、本人の頑張りがあってこそ。
その成功につながる生き方のひとつとして、前回は、常に相手の心を読み、相手の求めることを行い、相手に必要と思われる人間になったことを書きました
『何度だって闘える』サンダー杉山、幼い頃に心を読み徳を積む
妾の子として生まれ、本妻と一緒に生活する不遇な環境で育ったサンダー杉山。大人の顔色を見て動くことでしか自分を守る術がなかったのですが、そこでグレたり絶望したりするのではなく、その境遇を逆に自分の能力につなげたことが、『何度だって闘えるーサンダー杉山物語「一片の悔いなし!」』には書かれています。
同書によると、サンダー杉山が成功した理由は、もうひとつあります。
“回り道”は結局自分のためになった
サンダー杉山は、決して人を悪く言いません。
プロレスラーを経て事業を始めたと書きましたが、たとえば、国際プロレス退団後、事業を始める準備としてスズケンに入社しました。
本当なら、そこで数年仕事をして独立する予定だったようです。
ところが、ジャイアント馬場が日本プロレスをやめて全日本プロレスを旗揚げし、日本陣営の戦力が足りないからと、サンダー杉山の入団を三顧の礼で求めてきたそうです。
そこで、サンダー杉山は、せっかく入社して仕事が軌道に乗っていたスズケンを退社してリングに復帰。
しばらくは、ジャイアント馬場に次ぐナンバー2の扱いでした。
http://blog.goo.ne.jp/konoichi/e/97193c5dc3b8596267ee151892270884より
しかし、ザ・デストロイヤーの入団、新人・ジャンボ鶴田の成長、日本プロレス崩壊による選手の合流などで選手が足りてくると、次第に冷遇されるようになりました。
たとえば、試合を組んだもらえなかったり、移動がグリーン車から普通車になったりとか。
つまり、もう、要らなくなったので、やめるように意地悪をされたのでしょう。
もちろん、実力の世界ですから、序列が下がればそういうこともあるのでしょうが、結局、そうした待遇に不満をもち退団したといわれています。
しかも、その頃はスズケンにも事情があり、スズケン復帰もできず、退団後はフリーレスラーを名乗る“浪人生活”をしばらくしていました。
見方によっては、「全日本プロレスに入ったばっかりに回り道をした」とも言えるわけです。
が、『何度だって闘えるーサンダー杉山物語「一片の悔いなし!」』によると、その頃の不満は一切書かれておらず、というより、そもそも自分からスポット参戦(サンダー杉山の都合のいい時だけ試合をする)にしてもらったかのような書き方になっています。
肩たたきで試合を組んでもらえないことと、自分から“パートタイマー”にしてもらうことでは180度違うと思うのですが、いずれにしても、全日本プロレスと泥仕合にしなかったことが幸いしました。
全日本プロレスの実質親会社である日本テレビは、『おはよう!こどもショー』に当時出ていたサンダー杉山を退団後も引き続き出演させました。
『何度だって闘える』より
サンダー杉山にとっては、子供番組に出演したことで知名度とイメージアップに繋がり、事業を行う上で大いに役立ったそうです。
もし、子会社の全日本プロレスと泥仕合をしていたら、番組も降板させられたかもしれません。
そして、サンダー杉山がホテル業を始めると、全日本プロレスは名古屋興行の際、サンダー杉山のホテルを利用するようになったそうです。
全日本プロレスも、使い捨てた(?)サンダー杉山に負い目を感じていたのかもしれません。
情けは人の為ならず
私がここで感じたのは、「情けは人の為ならず」です。
向こうに非があれば、そのときは袂を分かっても、それが「貸し」となって、将来何らかの形で自分に還ってくることもあり得る、ということです。
理不尽な仕打ちにあったからといって、泥仕合をしてしまったら、その「貸し」も消えてしまい何も残らないどころか、むしろ、相手の人脈との付き合いも絶たれ、自分が一層損をするだけです。
考えてみると、私はそれでずいぶん世間を狭くしたかも(汗)
もちろん、絶対に還ってくるとはいえませんが、還ってこなければ、それは「その程度の人(会社)と付き合った自分が甘かった」と思い、これからの反省材料にでもしたほうがいいでしょう。
サンダー杉山が泥仕合をしていたら、『おはよう!こどもショー』だけでなく、「よそで泥仕合をする者など、怖くて付き合えない」というふうに思われて、他団体のリングにも上がれなくなっていたかもしれません。
同書には、こう解説されています。
人間生きていれば、怒りたくなることはたくさんある。しかし、サンダーは自分の感情を殺し、耐えることでプロレスの世界でもチャンピオンになったし、商売でも成功してきた。結果は、運が左右してしまうことがある。少ない努力で勝てることもあれば、負けてしまうことだってある。サンダーは、練習量や努力では負けないように努力していた。結果を出すための過程が大事なのだ。商売なら、耐えることや努力することは、人に負けないようにできる。それで儲かろうが儲かるまいがそれは相手が決めることである。
以前このブログでは、萩本欽一が、「短気は損気」を、「運」という言葉を使ったたとえで述べているのをご紹介しました。
運は存在するのか
嫌なことがあった。だからといってそれを相手にぶちまけるのではなく、自分の頑張りのバネに利用した方がいいという話です。
結局、萩本欽一の言っていることも、今回の話とつながってきますね。
『何度だって闘えるーサンダー杉山物語「一片の悔いなし!」』。
プロレスそのものに詳しくない方にとっても、ひとりの実業家の興味深いエピソードがたくさん書かれているので、私の価値観ではおすすめできる書籍です。
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