『結果を出す技術』(桜井章一著、宝島社)について再び書きます。今回は、「腹一分」「いいものは求めず、ダメなものを選ぶ」「努力すればいいというものではない」など、ことわざをもじったり、その反対を主張したりしている件をご紹介します。
『
結果を出す技術』について、前回は、一見、相反するものや矛盾するものこそ、組み合わせることでいい結果が生まれるという
弁証法の話をご紹介しました。
『結果を出す技術』仕事と人の好みを述べる前に確認したい弁証法
今回は、「
腹八分」ならぬ「
腹一分」の話からです。
「腹八分」ではなく「腹一分」
「腹八分」という言葉がありますが、
桜井章一氏は何事においても「腹一分」の感覚をもっているそうです。
そして、その気持ちこそが、麻雀の代打ちとして
20年負け知らずでいられた秘訣だといいます。
現代の経済社会は、人々の欲を刺激する仕掛けが、あちこちに張り巡らされており、不必要な物まで「豊かさ」として求めるようになったため、ほとんどの人が知らず知らずのうちに、“
腹十二分”くらいの感覚になってしまっている。
それだけ、「欲たかり」で満腹状態だと、心に余裕がなくなってしまうが、「腹一分」なら気持ちに
余裕が生まれ、それによって視野が広がるというのです。
けだし、流行の車も持った、家も人並みに建てた、社内でも同僚を蹴落として出世した。そうやって得られた「豊かさ」は、
守ることに精一杯となり、自分と周囲の関係全体を見渡すことができなくなるということでしょうね。
火災で無一文になり、
「腹一分」を余儀なくされている私には、ここもよくわかります。
自らの、欲やコンプレックスや嫉妬や見栄の
感情は何によるものか。
腹を「一分」にすれば、そんなものは消えてなくなる、ということがわかるはずです。
残り物には福がある
桜井章一氏は、「
残り物には福がある」ということわざも引いています。
といっても、タナボタ待ちという受身的な幸運を狙っているわけではありません。
むしろ、「
いいものは求めず、ダメなものを選ぶ」という気持ちです。
ああ、これ聞いたことありますね。
「運」論者の萩本欽一が、「
幸運の秘訣は『遠くする』ことにある」と言っています。
『ばんざい またね』萩本欽一が語る3つの「運」論
『婦人公論 2013年 1/22号』より
手っ取り早く希望を叶えよえとせず、自分や他人が嫌なこと、苦労することからやりましょう、
急がば回れで運を貯められる、と。
それに近いものかもしれません。
桜井章一氏曰く、みんなが選ばないような道を選ぶことで、見えてくるものがある。“ダメなもの”は、改良したり修正したりする点がいくらでもある。
ダメだからこそ何かをしていく、というのです。
社会的に「いい」とされる道ばかり選ぶと、
成果主義・合理主義という社会の「罠」にハマり、
目先の勝負ばかりに追われる価値観に洗脳されてしまいます。
それよりも、そんな価値観の届かないようなところから、自分の判断で開拓するオンリーワンを進んだほうが、実は「
結果を出す」ことができるかもしれない、というわけです。
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努力すればいいというものではない
以前も書きましたが、
努力を美化する風潮には私は懐疑的です。
努力は必ず報われる?本当にそう思いますか?
目標に向かって頑張ることはもちろん間違いではないのですが、「
努力さえすれば報われる」というのは、やはり合理的な根拠のない、神秘主義・非合理主義のたぐいです。
桜井章一氏は、「
努力すれば報われるという言葉は嘘である」「
的を外した努力はするな」というのが持論だそうです。
「的を外した努力」とは、
結果を出すために必死になり、廻りが見えなくなることです。
日本人は、目標をたて、そこに向かって猪突猛進に頑張った人が評価される傾向があり、
目の前のことに集中するほうが、あちこちに気が向く人よりも望ましい態度のように見られています。
しかし、桜井章一氏は、
目標は前ではなく、自分の横に置くような感覚を持っているそうです。
目標だけを見つめるのではなく、「
よそ見をする」ことを勧めているのです。
麻雀は、卓を囲んでいる相手の動きや気配も常に感じなければなりません。
そんな時、自分の牌ばかり見ているたら、それらはわからないわけです。
つまり、対象物や目標だけでなく、
連関する事象に目配りしなさい、ということです。
ですから、
「よそ見」ではあっても、「脇見」ではありません。
たとえば、ある名門大学に入るために、小さい頃から懸命に受験勉強をするという「努力」で合格を勝ち取る生き方もあれば、遊んでばかりいて、その結果一芸に秀でてAO入試に通るという道もあります。
「これしかない」と決めつけずに、
いつも全体を見ろというのは麻雀に限らないというわけです。
約束は自分とするもの
人を裏切らない、というのは人間関係で大切なことです。
ただ、いろいろ事情があって、いったんした約束を履行するのが困難なこともあります。
桜井章一氏は、自らが主催する雀鬼会の若者たちと毎年夏に海に行くそうですが、体調が悪い時もあります。
しかし、「体調がいいから行く(悪いから行かない)」ではなく、「体調が悪いからこそ行く」という考え方をするといいます。
たんに、若者たちに対する義理立てではなく、
約束とは他者以前にまず自分に対するものである、という考えをもっているからだそうです。
「約束は自分とするもの」
これが約束の本質である。
私は自分に嘘をつきたくないし、裏切りたくもない。だから自分と交わした約束は死守する。それが私の生きざまでもある。(中略)
約束を破ってしまったとき、人は言い訳をしたり、嘘で取り繕ったり、あるいは逃げてしまったりする。「約束は誰かとするもの」と思っている人は、そこで相手の信頼を裏切ってしまったと感じるのかもしれない。
でも約束を破るということは、本当は自分自身を裏切っていることなのだ。
約束は、相手が破ったり、裏切ったりすると、自分の忠義心が無駄になったような悔しさを感じます。
しかし、約束はまず自分とするもの、という考え方なら、相手が約束を破ったり裏切ったりしても、それほど腹はたたず、
約束を守ることが無意味だったとも思わなくなるでしょう。
もちろん、約束を破ったり、人を裏切ったりするような人とは付き合いたくない、という判断自体はあっていいと思いますが、自分の心の折り合いをつけるという意味では、「
約束は自分とするもの」という考え方は覚えておきたいことだと思います。
ということで、今日も2000字過ぎましたので、このへんで。
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