『結果を出す技術』(桜井章一著、宝島社)を読みました。先日、桜井章一氏については、ツキについての考え方をまとめ書籍『ツキの正体』(幻冬舎)をご紹介しましたが、本書は、具体的に仕事にのぞむ上での心構えや考え方などについてまとめています。
「
20年間無敗伝説の雀士」といわれている著者の
桜井章一氏は、結果が求められる世界で実績を残したわけですが、桜井章一氏自身は、物事は結果よりもプロセスであるという考え方をもっているそうです。
先日の記事、「
『ツキの正体』野生のカンは自分に素直に生きることから」でもご紹介したように、桜井章一氏は、勝ち方、負け方の内容に、次のような順位をつけています。
1.良い内容で勝つこと
2.良い内容で負けること
3.悪い内容で負けること
4.悪い内容で勝つこと
つまり、何でもいいから勝てばいいという考え方をしていません。
内容重視なのです。
なぜかというと、「勝てば何でもいい」では、ずるい麻雀に陥って自分自身の心をスポイルしてしまうとともに、成り行き任せになってしまうツケは、
やがて「悪い結果」として返ってくるからだそうです。
しかし、「
代打ち」は結果を求められる立場です。
遂には、「代打ち」という必勝を義務付けられている自分の立場と、内容重視である自分の考え方のギャップに耐えられないため、雀士を引退したと述べています。
その桜井章一氏が、「長い目で見た時、いい結果を出すにはどうしたらいいか」という
結果に繋がるプロセス論をまとめたのが本書『結果を出す技術』です。
相反する力で結果を出す弁証法的世界観
本書の第一章には、「
相反する力で結果を出せ」というタイトルがついています。
文字通り、
相反するものを一緒にするといい結果が生まれる、
矛盾の中に自由がある、といった、一見わかりにくい提言がなされています。私ごときが少し補足しましょう。
たとえば、桜井章一氏は、この世の中に無駄なものはないといいます。
世の中は、非効率的なものがあるから、そこからより効率的なものに進化する。
だから、
善と悪、
常識と非常識、
緊張と弛緩、
熱血と冷血など、相反するふたつのことは、どちらかだけを目指す
オールオアナッシングではなく、どちらも必要だという考え方をするように勧めています。
「効率」や「善」や「合理性」だけを求め、その反対側あるものを否定してしまったら、そこで完結してしまうから進歩はない、と戒めているのです。
桜井章一氏の意図や自覚はわかりませんが、これは桜井章一氏個人の主観や直感にとどまらない、すでに先人から認知されていた世界観です。
このような考え方は、哲学の世界では
弁証法といわれます。
事象の運動・発展は、その対立・矛盾を通してその統一により行われるという考え方です。
たとえば、「治らない」難病は医学(の進歩)にとって対立する現象。でもそれを克服してこそ医学が発展する。
簡単に述べると、社会は、発展を貫く方向と両立しないもの(矛盾)があってこそ発展する運動が生じるという世界観です。
ここを読んだ時、私は次のことを思い出しました。
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「荒削り」「欠点」はより高次な自分への契機である
私が子供の頃、
立川談志が、『やじうま寄席』(1971年4月17日~1980年3月29日、日本テレビ)という番組の一コーナーである、素人のど自慢の審査員をしていたことがありました。
立川談志さん一周忌、どこも書かないエピソード
そこで、立川談志は、いちばんうまいと思えた人ではなく、その人よりは
全体として少し劣るように思える人を最優秀に選んだことがあったのです。
その時の談志師匠は、「いちばんうまいと思えた人」に対して、「
あなたは欠点のないのが欠点」だから選ばなかったと言っていました。
子供の頃の私には、それが
禅問答のように思えて、どうしても理解できなかったんですね。
欠点がないほどうまいなら、選ぶのは当然だろうと。
子供心に、立川談志は、なんてへそ曲がりなんだと思いました。
まあ、それ自体は、外れていないのかもしれませんが(笑)
でも、今は何となく理解できるような気がするのです。
欠点こそが、さらにうまくなるための「対立・矛盾」であり、それが「運動・発展」たり得る要件であると。
欠点のない人はそこで完結してしまう。
つまり、立川談志は「
伸びしろ」に「
最優秀」を与えたんでしょうね。
差別やいじめのメンタリティに欠けている世界観
桜井章一氏は、人の組み合わせについては、弁証法の立場からこう述べています。
明るい人と暗い人、熱い人と冷たい人、真面目な人といい加減な人、そういった相反する組み合わせが多ければ多いほど、そのチームは彩りを増し、新たなものが生まれてくる。
今のAKB48はわかりませんが、そのプロトタイプともいわれている、
おニャン子クラブは、メンバー構成を、全員美人などと考えず、普通の子、可愛い子、ボケを担当する子など、あえて何通りものタイプで採用したという話を
秋元康氏のインタビュー記事で読んだことがあります。
違うタイプを組ませることで、そのグループが「運動・発展」するという弁証法の考えがあったのかもしれません。
以前書いたように、「
三人娘」も、同じタイプの3人を束ねただけよりは、一人が先輩、年上、実績が上、という人を入れた方ほうが、ユニットとしての「運動・発展」がありました。
『ハイハイ3人娘』中尾ミエ園まり伊東ゆかり、ユニットの意義
たとえば、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりの「
スパーク三人娘」は、中尾ミエがキヤリア・実績とも先行していましたし、
『ハイハイ3人娘』(1963年、宝塚映画製作所/東宝)より
「
花の中三トリオ」は、桜田淳子、山口百恵という同期・同級生に、すでに新人賞をとった先輩の
森昌子を扇の要に据えました。
花の中三トリオ、『スター誕生!』からそれぞれの2013年
『
としごろ』(1973年、松竹)より
一方、新人を集めただけの、榊原郁恵、
清水由貴子、高田みづえの「
フレッシュ三人娘」は、ユニットとしての認知すらされなかったように記憶しています。
巷間ではこんにちなお、
差別やいじめのニュースが後を絶ちません。
が、差別やいじめを行う側にどんな言い分があろうが、弁証法を理解していれば、「
自分と違う奴」「
自分の好みではない奴」など、相反する人物という「対立・矛盾」こそ、自らの人格形成の「運動・発展」に寄与できる人物かもしれない、という見定めができるはずです。
今日は第一章の
弁証法の話だけで終わってしまいましたが、桜井章一氏の書籍を読んで、改めて意味の重い世界観だと気付かされたので記事にしてみました。
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