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『第五福竜丸』を「水爆実験報道」後に鑑賞する [懐かし映画・ドラマ]

第五福竜丸

『第五福竜丸』(1959年、近代映画協会・新世紀映画/大映)という映画を観ました。ここのところ、北朝鮮の「水爆実験」報道の信ぴょう性が取り沙汰されていますが、同名のマグロ船は、アメリカの正真正銘の水爆実験で被爆しました。本作は、新藤兼人監督のもと、第五福竜丸とその船員たちを事実に基づいて描いた作品です。(上画像はGoogle検索画面より)



1954年1月。静岡・焼津港から、見島民夫・漁労長(稲葉義男)、久保山愛吉無線長(宇野重吉)ら、23人の漁夫を載せたマグロ船・第五福竜丸が出港しました。

船は、見島民夫・漁労長(稲葉義男)の提案で、いつもと少し航路を変え、マグロの大量捕獲を求めてビキニ環礁のあたりに向かいました。

そして3月1日夜明け前、漁労長(稲葉義男)や久保山愛吉無線長(宇野重吉)らは、暗やみの中に白黄色の大きな火の柱ときのこ雲を目撃。

しばらくして、大爆音が船内に響きわたり、その海域は立入禁止区域外でありながら、船上には真白な「死の灰」が降りそそぎ、船員やマグロはそれを目一杯かぶりました。

しかし、久保山愛吉無線長(宇野重吉)は、アメリカの新型爆弾であることを直感したので、無線報告を盗聴され、アメリカに船を撃沈されないよう、報告をせずに静かに帰港しました。

船員たちは、すべて顔が真っ黒に日焼けしたようなやけど状態で、一部の人は身体に変調が生じていました。

焼津協立病院の大宮医師(永井智雄)は原爆症を懸念し、久保山愛吉無線長(宇野重吉)の提案もあって、東京の病院に紹介状を書きました。

地元の新聞記者がそれをスッパ抜き、表沙汰になり、アメリカからも専門家が調査にやってきました。

知事(小沢栄太郎)は、船員たちの補償を、国が行わないなら県や市で行うと約束。助役(殿山泰司)の説得で、船員たちは東京の病院に転院します。

アメリカの専門家たちは、調査目的があからさまで、かつ謝罪もなく、他人事のように「謝罪」ではなく「見舞い」と称します。

東京の医師たちは、感情だけでなく、患者を守るという医師の良心からも、彼らが踏み込んで調査しようとすることを拒みます。

療養生活で、殆どの船員は、白血球などの数値が戻ってきましたが、久保山愛吉無線長(宇野重吉)だけは、「放射能症」で状態が悪化。

妻(乙羽信子)や娘、母親らがかけつけるも、亡くなります。

訃報はラジオアナ(内藤武敏)によって全国に伝えられ、多くの人から弔電や弔問を受けました。

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自国民の被爆を怒り悲しむことの大切さ


映画はここで終わっています。

映画の主眼は、

1.水爆の被爆で犠牲者が出たことと、
2.アメリカに全く誠意がなかったこと、
3.自治体、医師、国民が船員たちを暖かく見守り、そして久保山愛吉無線長(宇野重吉)が亡くなったことをみんなで深く悲しんだこと


などの描写にあります。

これ自体、全くその通りで、映画としては力作であると思います。

ただ、現実は、この後にさらなる問題がありました。

ひとつは、日本政府が、アメリカとの間でこの問題を政治決着したこと。

ここでは詳細述べませんが、「政治決着」したことと、その後我が国に、原発がポコポコ作られたことは、決して無関係ではありません。

もうひとつは、アメリカが、久保山愛吉無線長(宇野重吉)の死因を、被爆と結び付けない不可知論の立場をとったことです。

第五福竜丸の船員は、汚染血液で肝臓がやられていたので、久保山愛吉無線長(宇野重吉)もそれで亡くなったのだ、という説が、今もアメリカの言い分にもとづき一部の日本の識者からも述べられています。

しかし、かりにその前提に立ったとしても、水爆で被爆させられた事実が消えるわけではありません。

そのために、焼津の住処も捨て、過去も伏せて、その後の人生を生きなければならなかった船員たちの思いを考えたことがあるのでしょうか。

にもかかわらず、アメリカは謝罪をしていないのです。

この映画を見ていると、「国益」とはいったい何なのか、ということまでも考えさせてくれます。

いずれにしても、第五福竜丸被曝をわかりやすく知ることができる作品です。

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