阿修羅・原、バーン・ガニアの訃報から2人の余生を振り返る [スポーツ]
阿修羅・原とバーン・ガニア。昭和プロレスファンには馴染みの深い、2人の元レスラーの立て続けの訃報が話題になっています。この2人については、亡くなる前の「老後」のところで印象深いことがあったので振り返ってみます。
阿修羅・原は、東洋大学を経て近鉄に入社。ラグビーの日本代表とし活躍し、1976年には日本人として史上初めて、世界選抜メンバーに選出されています。
Google検索画面より
プロレスラーが、何らかのスポーツ出身であることはめずらしくありませんが、“日本人として史上初めて”という経歴は、これまでにない輝かしさを感じました。
プロレスは国際プロレスに入団。
ただ、この時は、すでに斜陽の同団体の救世主にしようと、焦ってプッシュしている感がありありでした。
和製チャールズブロンソンといわれたのに、王子様のような衣装を着せたり、ヘビー級レスラーとしてじっくり育てればいいのに、手っ取り早く勝てそうなジュニアヘビー級としてデビューさせたりしていたのです。
その後、国際プロレスは崩壊。マイティ井上ら4人のレスラーが、全日本プロレスに入団するのですが、マイティ井上のタッグパートナーだった阿修羅・原は行動を共にせず、単独で全日本プロレスに乗り込み、「天龍源一郎と真っ白になる試合がしたい」からと入団します。
だったら一緒に入団すればいいのに、孤独というか孤高というか、元世界的選手としてのプライドがあったのでしょうか。
天龍源一郎とは龍原砲として一時代築くのですが、ちょっと気の良すぎるところがあり、金銭トラブルをしばしば起こして全日本プロレスを解雇。
その後、天龍源一郎の誘いでメガネスーパー(SWS)で少しだけファイトして引退します。
郷里の長崎に帰ってからは、親の年金で食わせてもらう生活と報じられたこともありましたが、やがて自分の年金で暮らすようになったので、再び“自活”(苦笑)。
私が意外だなと思ったのは、この点です。
金銭問題ばかり起こしていた元プロレスラーでも、ちゃんと年金、しかも厚生年金に加入していたことです。
ラグビーの近鉄、国際プロレス、そして全日本プロレスの在籍年数が全部で19年でしたが、昭和22年生まれで厚生年金被保険者期間が19年の場合には、受給資格を得ることができるようです。
格闘家は生活が保証されていない、なんていいますが、当時の団体所属レスラーには、健康保険と年金がついていたということです。
当時のプロレス団体は、地上波テレビ局がバックについていて、一定の放映権料が入っていたので、今の弱小団体とは経済的基盤がちがうのでしょう。
1試合いくらというファイトマネーだけで、兼業レスラーも少なくない現在から比べると、恵まれていますね。
それにしても、これで国際プロレス出身者で残っているのは、宮崎に隠居したマイティ井上と、「気合だぁ」と怒鳴りまくって、今もテレビでちょくちょく見かけるアニマル浜口の2人だけになってしまいました。
プロレスラーの余生ならではのリスクか
バーン・ガニアは、私の世代ですと、プロレス界ビッグ3の1人というイメージが強いと思います。
Google検索画面より
NWA、WWF、AWAという3大世界王座が当時あり、その中のAWA世界ヘビー級チャンピオンだったからです。
『日本プロレス事件史6』より
右下がバーン・ガニアです。この雑誌(レスリング・レビュー)では、NWF(アントニオ猪木)も入れて4大王座として報じていますね。
もっとも、NWFはすでにこの時点で組織が崩壊して、実態は新日本プロレス認定の選手権だったのですが。
それはともかくとして、バーン・ガニアは老人ホームに入所していた6年前、入居者と口論になり、ボディスラムで相手を投げつけ、死に至らしめたとの報道がありました。
どちらも認知症で目撃者もいなかったため、罪には問われなかったようですが、起訴されるかどうかにかかわらず、プロレスラーの余生にはそういうリスクもあるのか、とびっくりしました。
それにしても、昭和は遠くなりにけり、ですね。
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