大正の夢の設計家: 西村伊作と文化学院(加藤百合著、朝日選書) [文学]
大正の夢の設計家: 西村伊作と文化学院(加藤百合著、朝日選書)は、文化学院を創設した建築家の生き様と功績をまとめた書籍です。画一的で権威主義的な教育が主流だった明治時代後期から大正時代にかけて、枠にとらわれない学校を私財で作りました。(文中敬称略)
残念ながら、最近閉校になってしまいましたが、文化学院という「各種学校」(専門学校、高等専修学校)がありました。
文化学院は、1921年(大正10年)に西村伊作(にしむら いさく、1884年(明治17年)9月6日 - 1963年(昭和38年)2月11日)によって東京で創設された、革新的で自由な教育を実践する学校です。
その理念や活動は、当時の日本の教育界に新風を吹き込み、特に女性教育や個性を尊重する学びの場として注目されました。
各種学校を括弧づきにしたのは、種別では専門学校ではあるのですが、慶應義塾の構成に則って作られ、大学のように学部制が採られていました。
大学にするには、学校教育法第1条に定められた条件を満たさなければならないのですが、それにはこだわらず、教育の実質に力点を置き、まああえて1条校にはしなかったのかもしれません。
戦前に男女平等の学校を私財で創立した
2024年9月の旅 和歌山54
— 山峡の旅人 (@zWNR1fGOKw9KOCa) November 26, 2024
新宮市の西村伊作記念館へ。大正3年竣工の、文化学院の創設者で大正·昭和期に日本人の生活スタイル改善を目指した教育者·建築家の西村伊作の旧宅で、与謝野鉄幹·晶子夫妻、地元作家の佐藤春夫などの文化人を招き交流を深めていたという。現在は記念館として公開されている。 pic.twitter.com/w35845rmsC
西村伊作は、和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)出身。
豪商の父・大石余平、母・ふゆのあいだに長男として誕生しました。
つまり、最初は大石伊作でした。
一家が名古屋に転居したとき、濃尾地震が発生し、両親は無事だったのですが、伊作は家督相続のため祖母のもとで育てられ西村姓となり、祖母の莫大な財産を相続します。
またもや改姓経験者です。
さらに、祖母がなくなって引き取られた父の弟が広島の医師であり、経済的な苦労なく成人します。
要するに、一族で金持ちなんですね。
ところが、掛け値なしの富裕層でありながら、伊作は父とともに社会主義に傾倒し、日露戦争に反対したり、欧米化を求めたりします。
社会主義者で有名な、幸徳秋水や堺利彦ら平民社に拠る社会主義者と交流したそうです。
社会主義は、富裕層の自分にとっては不利になるかも知れないのに、利他の精神を持たないと社会は成り立たないと考えたのです。
ここがすばらしいと思いますね。
以後、兵役を逃れるために海外に出たり、大逆事件で社会主義者が弾圧されて挫折したりなどありましたが、与謝野鉄幹・晶子、佐藤春夫など文化人との交流を深め、建築会社を立ち上げる一方で、芸術的生活を啓蒙する雑誌の刊行や、芸術家用の文化住宅を集めたコロニーの建設などを計画したりしました。
そんな伊作が考えていたのは、娘の学校でした。
娘のために自らが考える真の学校教育を模索し、さまざまな芸術家、文化人との交流のなか、「じゃあ、自分で学校を作ってしまおう」ということになりました。
それが、文化学院です。
結局、学校というのは社会の縮図で、自分の娘だけがよい思いをすることはできません。全体を良くするには、学校そのものを、交流のある文化人たちの意見を採り入れ、理想を実現しようと考えたのです。
金持ちだからできた、といえばそれまでですが、では今も金持ちは同じことをできるのでしょうか。
文化学院は、画一的で権威主義的な教育が主流だった明治時代後期から大正時代にかけて、教育改革の必要性が叫ばれる中で誕生しました。
創設者の西村伊作は、「個性を尊重し、自由な学びを実現する教育」を目指し、当時の大正デモクラシーや自由主義思想を教育に実践しようと考えました。
戦前から男女共学を採用し、学問だけでなく、美術、演劇、音楽といった芸術教育を重視しました。
教師陣や講師には、当時の著名な文学者、芸術家、思想家が多く参加しており、生徒たちは第一線の知識人と交流する機会を得ました。
これでは、当時の文部省は「学校」としては認めなかったでしょうね。
何しろ、女性に選挙権もなかった頃の話ですから。思想的にも厳しかったですし。
国との方針が違ったため補助金はなく、誰からの援助も受けず、すべて伊作自身の個人資産で運営されたそうです。
現在は、形式的男女平等、教育の多様化など、文化学院が目指したことはだいぶ実現できました。
ですから、文化学院は、時代的役割を終えたのかも知れません。
しかし、文化学院は、近代日本における教育のあり方や文化的な価値観を大きく変えた存在であり、今日でもその理念は再評価されています。
西村伊作の先見性や、大正時代の自由で豊かな文化の象徴として、多くの示唆を与える学校です。
多くの芸能人を輩出
誕生日 since 1971
— 和丸号 (大塚和之) (@kazumarugou) December 16, 2024
福岡市出身 文化学院
35年前の平成元年
“ハイシーガールコンテスト”
グランプリを機に芸能界デビュー
同年12月
??CM JR東海「???エクスプレス」で
一躍トップアイドルスターに
2年後歌手デビューも果たす
平成の??ドラ??CMを支えた
問答無用の永遠の
美少女レジェンド pic.twitter.com/5iqg24cflx
芸能人では、犬塚弘、津川雅彦、すまけい、前田美波里、朝吹ケイト、とよた真帆、牧瀬里穂、十朱幸代、梅宮アンナなどが文化学院出身者です。
牧瀬里穂のCM、良かったですね。
文化学院はなくなってしまったけどあの有名なアーチ型のエントランスは残してあるのね、感動 pic.twitter.com/LV0qBMVe3s
— ゆっきー (@kaleipikake) November 27, 2024
私の母の姉も、文化学院の洋裁コースでした。
で、私の父の妹が、杉野学園、いわゆるドレメ出身で、母は2人から服を作ってもらい、出身学校によって仕立ての流儀が違うとの「レビユー」を述べていましたが、洋裁も奥が深いですね。
文化学院、ご存知ですか。
大正の夢の設計家: 西村伊作と文化学院 (朝日選書 394) - 加藤 百合
自由な校風といえば、
自由学園というのもありましたな。
あちらは高校か。
by おっつぁん (2025-01-10 23:18)
私財を投げ出すって凄いことですね。
by HOTCOOL (2025-01-11 05:45)
自分で学校を作ってしまおうと言う発想がスゴイですね。
by まつき (2025-01-11 10:31)
nice! です。
Seesaaブログへのコメント、ありがとうございます。
体重変化は、奥が深いです。
by ソレイユ (2025-01-11 10:42)
みなさん、コメントありがとうございます。
> あちらは高校か
大学「部」という学部もあるみたいですね。
> 私財を投げ出すって凄い
利他の精神があればこそでしょうか。
> 自分で学校を作ってしまおうと言う発想がスゴイ
名前がいいですよね。
> 体重変化は、奥が深い
ちょっとしたことで増えたり減ったりしますからね。
by いっぷく (2025-01-11 19:48)
自由の風が吹きかけた時代。
ぎゃらりぃは大正建築です。
by 夏炉冬扇 (2025-01-11 20:17)
拙学び舎です☆家庭を持ち35歳でアーチをくぐりました。その後10数年学院で後進たちの授業のお手伝いをさせていただきました。先生も生徒も無いような共に刺激し合う素晴らしい学校でした。
いっぷくさん、紹介ありがとうございました~♡!
by ロコときどきキナコ (2025-01-11 20:45)
> ぎゃらりぃは大正建築
今も問題なく使用できるということは、かなりしっかりした造りなのですね。
> 共に刺激し合う素晴らしい学校
OGの方でしたか。閉校が惜しまれますね。
by いっぷく (2025-01-12 07:39)
昨年まで勤めていた仕事場が近くだったので
文化学院の前は毎日通ってました。
閉校してもあの建物は何かしらの文化遺産として残して欲しいですね。
by cheese (2025-01-12 09:49)
>建物は何かしらの文化遺産として残して欲しい
アーチの入口部分がそのまま保存されているほか、長野県軽井沢町のルヴァン美術館に創立当時の校舎が復元されているそうです。
by いっぷく (2025-01-12 23:41)
高等部の英語科にいました。
油絵や演劇に出会えたのもここ。
良い時代に濃い3年間を過ごせました。
素敵な記事をありがとうございます。
by JF (2025-01-15 23:25)